闇が降りてきたのかと思うほどに、頭の上には、真っ黒に塗りつぶされた空が広がっている。眼下にぽつぽつと灯る通りの明かりで散らされているのか、それとも本当は雲ででも覆われているのか、仰いだ空には今日は星のひとつも見えない。月も出ていなかった。代わりに、どこかから放たれるサーチライトの光が一定の間隔で夜空を切り裂いていく。
 片側三車線の大きな道路、そこを横切って架けられた長い歩道橋の上は、ずいぶん前から人通りもなく、ずっと俺たち二人だけだった。欄干の手すりにもたれて、少し先に見える交差点の信号が、赤い点滅を際限もなく繰り返すのを、さっきからただじっと眺めている。
 橋の下の道路を時折エンジン音を上げて車が行き過ぎていった。昼間だったらここはきっと車の往来も激しいのだろうが、この時間帯になるとその数もまばらになっていた。

 ここは喧騒からは少し離れているけど、道路の先、遠くにちらりと霞んでいるはずの繁華街も今は闇に紛れてよく見えない。
 呼吸が静かになるみたいに、明かりがひとつずつ消えて、昼間にはあんなに活気に溢れていた街が動きを止める頃。夜遅い時間に、こうやって広い道路の真ん中に立っていると──正確に言えば、道路を横切って架けられた歩道橋の真ん中に、だけど──なんだか不思議と、よく知っているはずの見慣れた街なのに、まるで知らない場所にいるみたいに思えた。
 それは、普段立っている地面よりも少し高い場所から道路を、そして遠くに見える街の方を見下ろしているせいかもしれない。あと、単純に普段しないことをしているせいかも、しれないけど。
 だけどこうしていると、なんだかふと、この世界を掌握したような気分になる。誰もいない、音も聞こえない、広い道の真ん中で。俺はすべてを見渡していて、なにもかもがその動きを止めて、息をひそめ、じっと耳を傾けている。その世界の中で、自分は確かにここに立っている。ここから、他の誰も見たことのない景色を見てる。そんなふうな考えがよぎった。
 望んだもの、ほんとうはなんだって手に入るんじゃないかって。

 一台、こちらへと向かってくる車のヘッドライトが一瞬視界を眩しく照らして、途絶えていた現実感が不意にまた戻ってくる。
 肘に当たる手すりの感触が冷たい。遠くには明滅する信号機の色が見えた。辺りは静かなまま、相変わらず人通りもない。
 ふうっと長く息を吐く。欄干の向こう側に両腕を垂らすと体の重みを手すりに預けた。
 こうしているとなんだか妙な気分だった。見つかりたくないのに、ここにいること、ほんとは誰かに見つけてほしいような。

 頭の上には全てを飲み込みそうな空、まっすぐに無機質な道路、滲んだ色の沿道の明かり。世界の本当の形なんて自分にはまだ分からない。だけどそれでも、憧れるだけの絵空事にはしたくなかった。
 いつか世界を見渡したいと思った。認めてほしいと思った。暗くても、見失うことのない光が遠くからも見えていて、自分はそれを追い求めている。けれど時々、息が詰まりそうになる。
 見上げた今日の空はやっぱり、暗いだけで何も見えなかった。目を凝らして探してみても、何も見つからなかった。
 何かあると、こうやって俺は、夜の空を見上げていた。帰り道や、近所の公園や、たまに乗せられる移動中の車の窓からも。


 仕事終わりの帰り道、どうしても彼女に会いたくなった。夜ももう遅いし、店も閉店してだいぶ経っている時刻だ。会える保証などなかったけど、それでも足は自然と店の方へ向かっていた。そんな俺の気持ちを汲んでくれたのかは、分からないけれど、彼女はまだ店の中にいた。片付け終わるまで待つから、今日は家まで送らせてってわがままを言うと、彼女はありがとう、とにっこり頷いた。別に何も言わなかったけど、俺が会いに来た理由をどこかで分かってるみたいに。
 彼女の家はこの広い道路を越えていった先にある。いつもの道すがら、歩道橋の上に差し掛かかった時に、ここでちょっと話していこうと先に立ち止まったのは彼女の方だった。時間も遅いし、郊外に向かう道路の上、車は橋上の人影など見向きもせず行き過ぎる。人目も気にする必要がない場所だ。まあ結局は、話って言っても、いつも通りというか、店を出た時からずっとたいしたことは話していないのだけれど。

 きらきらとまぶしい、色とりどりの光に縁取られた夜の街の華やかさはもう影をひそめている。この橋の上からはじめに見下ろした時、ぽつりと灯る街灯と信号以外にめぼしい明かりを失い、静けさに包まれているこの夜の街自体が、暗く塗りつぶされた今日の空みたいにも思えた。夜空というよりもむしろ、夜の海みたいに見えるかもしれない。
 道端を等間隔で照らす街灯の柔い明かりは航路を示す誘導灯、回ってくるサーチライトは灯台の光、たまに眼下を通り過ぎる車のテールランプはさしずめ過ぎ去る船の船尾灯のように。どこまで続いているかも分からない、深い夜の海は飲み込まれそうなほど暗くて、怖くて、少し寂しい。きっと、ここにひとりきりだったら、もっとずっと寂しかったんだろう。

「……ねぇ、こういうところにいると、何か大声で叫んだりしたくならない?」
 隣で同じように遠くを見ていた彼女が、ふとそんなことを言い出した。
「え?ああ……うん、まぁ。けど、なんて?」
「ほら、何かこう、心の叫びみたいな。うーん……。青春のバカヤロー、とか?」
「はぁ、なんだよそれ」
 くすっと笑うと、彼女はあ、ひどい笑った、と言って、ちょっと拗ねたそぶりを見せる。それから顔を見合わせて俺たちは一緒に笑った。
 本当は今日も、ごくありふれたなんでもない一日なのかもしれない。少しだけそう思えた。ここにいることは、俺たち以外誰も知らない、静かな夜だった。
 急にあんなことを言った彼女の意図は分からないけど、もしかしたら彼女にも、ここから見下ろした夜の街が何か違うものに見えていたのかもと思う。もしここが本当に海辺だったら、そういうのもいいかもしれない。彼女にはあえて、言わないけれど。
 目の前の道はまっすぐに、遠く先まで続いている。暗くて長くて、どこに続いてるかはよく分からなかった。なんだか怖くて、目を凝らすことをためらった。
 彼女は、何かあったことに気付いているのかもしれない。けど、店を出てからもずっと、俺には直接何も聞いてこなかった。

 先が何も見えない、不意にそんな恐怖にも似た感情に襲われることがある。
 近づいたり遠ざかったりしながらもずっと抱えてきた、小さい頃からの夢。でもそれはほんとにただの夢なんじゃないかって、追いかけてるだけでいつまでも掴めないんじゃないかって、たまにふと怖くなる。
 したい事とさせられる事は違うし、自分ではこれがいいって思っても、周りも同じように思ってくれるとは限らない。こんなことがしたかったわけじゃない、そう心のどこかで誰にも届かない大声を出した。夢を叶える、そう言うのは簡単だけど、実際にはそんなに単純じゃないということを、いろんな形で突き付けられる。
 本当は、自分に妥協したり、言い訳とかしたくなかった。そうしたら、そこで負けてしまう気がして。そうやって今までやってきた。けど時々、言いようのない閉塞感に囚われて、押しつぶされそうになる。
 絶対にできるはずだって気持ちと同時に、本当はちっぽけなんじゃ、って不安に苛まれる。
 この世界には、本当は分かってくれる人なんて、どこにもいなくて。

 ちょっと風が出てきたのかもしれない。今日、どうせなら星でも降ってくれば、こんな気持ちにもならなかったかもしれないのに。そんなことを考えた時だった。
「……うん、そうだ」ふと、隣で彼女がなにごとか一人で頷いたと思うと、欄干の上から上半身を乗り出すようにして、両方の手のひらをおもむろに口の周りに添えた。そして突然歩道橋の上から、わあああーっと、道路じゅうに響き渡るような声を張り上げた。
 その様子を呆気にとられたまま見守る俺など気にも留めずに。強まった風の音と一緒に、彼女の声が届く。
「わたしは、ちゃんと見てるからー!どんな時でも、魁斗さんの味方だからーっ!!」
 そしてまた、道路には静寂が戻ってくる。人目もまったく気にしてない様子で、それだけ叫んだあと、彼女はいつも通りの、屈託のない笑顔をこちらに向けた。
「バッ……、お前突然なに言って……は、恥ずかしいだろ!……だいたいほら、ここにいるの誰かに見付かったらどうすんだよ。それにさ、なんか……青春のバカヤローよりもっと、恥ずかしいし……」照れくささやいろんなものが混じって耳まで熱い。それだけ言うのがやっとだった。けれどうろたえる様子もなく、それどころかさっきより真面目な顔になって、彼女は俺の方に向き直った。
「ほんとうだよ。……魁斗さんなら、きっとできるよ。わたしは、魁斗さんが憧れるステージに立ってほしいし、魁斗さんが好きな歌を、これからもずっと、歌ってほしいって思う」
 ねえ魁斗さん。そう改めて呼びかける彼女の声は、不思議なくらい柔らかく、心の奥へと響いてくる感じがした。ずっと張りつめていた気持ちをほどく魔法かなにかのように。
「わたしは知ってるよ、魁斗さんはいつか絶対に夢を叶えるって。わたしはずっとここから見ているから。信じてるから。
 ……だから、わたしのことももっと、信じてほしい」

 頭の上には、闇がそのまま降りてきたのかと思うほど真っ暗な空が広がっていた。星も見えない。サーチライトの光だけが、さっきから幾度となく回って夜空を切り裂いていく。
「あ……」
 彼女が何か言おうとしたみたいだけどそれよりも、先に。腕を伸ばし掴まえるとそのまま、言いかけた言葉は途切れた。こうしないと多分、気持ちの方が溢れそうだったから。ぎゅうっと抱きしめて少ししてから、彼女が腕の中から小さく声を上げた。
「く、苦しいよ……」
「……だってさ、お前が悪いんだろ。……だからもう今日は、こうしとく。これ以上恥ずかしいこととか勝手に叫ばれたら、たまんねぇし。あとさ……その、ありがとな」
 さっきよりも、風が強くなったのだろうか。目の前の彼女の肩が冷たく寒そうに見えて、だからもっと、できるだけ近くに引き寄せる。ぜんぶを包み込むつもりで。力の加減とかうまくできないけどせめてこれ以上、少しの隙間も開かないように。
「寒くねぇ?」
「うん、今は……こうしてるから」
 冷え込んで、風邪とか引かせる前に家に送り届けなきゃって思うけど、離れたくなくて、今は動けなかった。
 塗りつぶしたような、星も見えない夜だった。飲み込まれそうで、声も届かなくて。だけど心の中で温かく揺らめく灯火のように、その存在は、信じてほしいと、そう俺に言ってくれた。俺にとってのこの世界を照らしてくれる、大切な光。
 この暗翳の下で、小さな期待も、望みも、ぜんぶ紛れてしまうほどの深い闇の中にいるのだとしても。
 たとえまだ自分が、世界の中のほんのちっぽけな存在なのだとしても、今はそれでもよかった。







(2013.4.17)