ウインドウの向こう側を行き交う人波の中。気がついたら、姿を探すのが日課になっていた。
 繁華街にも近い交差路の一角という立地のレストラン、通りに接して壁一面を抜き、設けられたはめ殺しのガラス窓。昼間だったら充分に明かり取りの代わりにもなるような大きさで、道路沿いはもちろん、交差点を渡ってやって来る人の様子まで店の中から伺える。だから、見知っている人がこの店に近づいてくれば遠くからでも分かるのだ。
 けれど今日はもう、窓の外には何も見えない。客足も途絶え誰もいない店内で、わたしはテーブルを拭いていた手を止めた。暗がりだけ映し出すガラス窓を、たまに斜めに横切って水滴が流れていく。今日一度は止んでいたはずの雨がさっきまた降り始めたらしい。夜も更けた閉店間際の時刻、どこの店ももう閉まっていて、そんな時間にこの通りをわざわざ歩く人の姿は見えなかった。

 これで何日目になるのだろうと、心の中で数えようとして、思い留まる。そもそも彼がここに来ると決まっていたわけでも、なにか次の約束があるわけでもなかった。会えない日を数えたところで、それがこれからも積み重なることにいっそう不安が募るだけだ。だいたい食べるところなんてこの辺りには無数にあるのだ。どうしようもないことなのだと、頭の中でちゃんと理解しなければ、自分がもっと寂しくなるだけだと知っていた。
 空調は効いているはずなのになんだか少し寒い。長い息をついてから、ぼんやり窓の外に向けていた視線をテーブルに戻す。今日くらいは、せめてお店で流しているBGMを、こんな無難なものではなく、彼らの曲にしておけば良かったと少し後悔しながら。

「カイト、最近大変そうだから」
 今日の昼間、この席にやって来た慎之介さんが言っていた。魁斗さん以外のメンバーは、このところも変わりなく、よく来店してくれている。バラバラの時もあれば、彼一人だけ、いないこともあった。
 御用達のいつものドーナツと紅茶をテーブルまで運んでいった時、誰にともなく慎之介さんはそう言った。
「ライブ前だから、いつもよりソワソワしてて。デビュー前の時みたい。でもたまには、ここに来て息抜きすればいいのにね。この店のドーナツ、こんなおいしいのに」
 カイトの分も、もう一個食べようかなあ、と、思わず見惚れてしまいそうなふわっとした笑顔でそう言った慎之介さんに、ありがとうございます、とその時わたしはせいいっぱいの気持ちを込めて答えた。その言葉はとても気になったけれど、あまり深く触れてはいけない気がして、結局その時はそれ以上彼について聞く事はできなかった。

 慎之介さんをはじめ、X.I.P.のメンバーももちろんそうだけれど、窓際に座っているだけでポスターのように画になる様はさすがだ、と思う。その姿が店の看板になって客を呼んでいるのではないかと思うほどだ。そんな状況が、ここに来てからは当たり前だった。今をときめくアイドルたちが店内に普通にいる風景に慣れてしまっていたけれど、改めて考えるとやっぱりすごいことなのだ。
 食事を終えて出て行く慎之介さんにいつものように声を掛けて見送った後、昼時を過ぎ、客もまばらな店内でわたしはぼんやりと考える。彼の仕事のこと、大変だったことも、何も知らなかった。普段、どんなことをしているのか。まだ本当は、知らないことだらけなのだと気付かされる。
 それに、慣れ、という言葉だけでは片付けられない自分の気持ちが、ずっとどこかで、あの人の姿を探していることにも。

 閉店間際の時刻になっても、厨房から漂うチーズの香りがまだ薄く店内に残っていた。最近は少し、種類にもこだわるようになっていた。本当はジャンルを越えていろんなメニューを用意してあるのだけれど、いつからか、洋食メインの、それもチーズ料理がおいしい店ということで、そのためにわざわざ足を運んでくれるお客さんも現れるほどになった。
 朝来て、店を開いて、まず最初に用意する料理はだいたいいつも決まっている。それは日によって、グラタンだったり、チーズをふんだんに乗せたピザだったり、あるいはチーズケーキだったりするのだけれど。レストランのマスターとして、もっと美味しいものを作って料理を極めたい、そう思っているのも確かにある。けれど何よりも。
 ただ喜んでもらいたくて。これなら毎日でもいいな、って嬉しそうに彼が食べている姿を見ているのが、わたしは好きだった。

 テーブルの上のカトラリーケースを丁寧に揃えている時に、ふと昔の出来事を思い出す。まだわたしがここに来たばかりの頃だったか、このスプーンと間違えて手に触れられたことがあったっけ。あの時のことは一瞬だし、恥ずかしくてあまり良く覚えてはいないけれどただ、きれいな指だな、とその時に思った。けれどやっぱり大きくて、自分のとは違う、少し硬い男の人の手だった。それに、あたたかい。
 今まで忘れていたのに、どうして急にそれを思い出したのかは分からない。でも今はもう、あの頃とは確かに違っていた。戸惑いもあったり、葛藤もあったり、流されるだけだったり、それでも引き寄せられるみたいにしてわたしたちは時間を重ねて。憧れが現実になっていくのが嬉しくて、でもどこかまだ、夢の中にいるようにも感じていた。
 二人の時間が積み重なるほど、初めは触れることすら恥ずかしかったあの指を、絡めて繋いで過ごしていられることに安心感を覚えていく。そばにいることが心地よくて、いつしかそれを求めるようになって。……彼の指が、わたしの頬と、唇をなぞったあの夜もきっと。

 厚いガラス窓の向こう側、外の雨脚は激しくなり、店に訪れる客も途絶えたままずいぶん経つ。暗い通りにぽつんと一つだけついたこの店の明かりが、外からはきっと寂しく映っているのだろう。今日はもうこのまま、誰かお客が来ることもきっとない。少し早めにお店を閉めようか、そう考えてふと思い付き、わたしはギャルソンエプロンのポケットに入れてあった自分のスマホを手に取った。
 保存してあるムービーからひとつの動画を選び再生する。Show up!の文字が画面に踊り、次々と流れて浮かんでは消えていく。透けるようなパステルで描かれた都会の街並みを抜け、人影を追い越して、どこかへと続いているひとすじの赤い糸。これを見るたびにわたしはいつも考える。
 膝を抱え、物憂げな切ない目をして彼は何を見ているのだろう。どこか危うく、憂いを帯びた表情で何かを抱え、何かを守り、でも揺らぐ感情の奥で彼は真摯に何かを思っているように見えた。印象的なその瞳を見ていると胸が苦しくなってくる。流れる風景の最後は、赤い糸を手繰り寄せた先でやがて一人の人に──運命の、相手に辿り着く。
 画面の中の彼は確かにアイドルだった。今までわたしが知っている人とは別人のような気がした。よく知っているようで、よく一緒に居たようで、それでも本当はわたしは、まだ彼のことを何も知らない。
 いつもお店に来てくれて、二人で一緒に出かけて、いつからかすっかり身近に感じていた。だけどわたしたちの距離は、とてもとても遠いのだ。
 本当ならば、手が届かないほどに。
 再生が終わり動きを止めた画面を見つめていた。再生ボタンの輪郭が滲む。背景も。
 会いたい、と、わたしは心から思っていることに気がついた。


 つい夢中になって、窓の外を通る人影にしばらく注意をしていなかった。
 カランコロン、とドアベルが突然軽快な音を立てたのに、慌てて持っていたスマホをポケットに滑り込ませて、入ってきた人を出迎えようと振り向いた。
「いらっしゃいま……」
「よう。……なんだよ、閑古鳥鳴いてんぞ」
 こないだまではあんなにもありふれていた、(そう思っていた)、いつもと同じ声。ちょっと意地悪くにやりと笑って、ドアをくぐった魁斗さんは、数日前に会った時と何も変わらない様子に見えた。
「……閉店間際なんだから、仕方ないでしょ。あと1分遅かったら、魁斗さんだって入れなかったんだから。……えっと、特製のグラタンとかなら、あるけど」
 泣きべそに気付かれないように、ろくに顔も見ないですぐ厨房へ入ろうとしたわたしの手はあっさりと、すこしあたたかい手に包まれた。
「なに怒ってんだよ」
「べつに怒ってないよ」
「じゃあ、なんで手を振り払おうとすんの」
「振り払ってないです」
「ウソ。……いいから、こっち向けって」
 俯いたまま、それでもぐいと引かれて強引に距離が近づいた。彼がわたしをじっと見ているのは分かったけれど、顔を上げられない。このまま、今なにかを言ったら、抑え込んできたこと、全部こぼれてしまいそうなのに。

「だって……チーズフォンデュが……」
「……は?」
「魁斗さんが、来てくれるかなって思って……毎日、作ってたんだよ……。だけど、来てくれなくて、ずっと……その、魁斗さんに食べてもらえなかったら、せっかくのチーズフォンデュが、もったいないし……待ってたのに。なんで、ずっと、来てくれな……」
 すうっと影が重なって、それを見上げようとした時にはもう、言おうとした言葉は全部言い終わる前に塞がれた。言葉と一緒に息も、流れていた音もぜんぶ止まる。唇に触れていたのはほんの僅かな間だったのに、時間の感覚が消えたみたいに思えて、自分から熱が離れていくその時に、とても胸が苦しく感じたのは、たぶん急だったから、それにきっと、触れられたのが久しぶりだったからだ。

「……もう、最後まで、聞いてくれないんだから……」
「お前が、そんなこと言うからだろ。それに……俺だって、会いたかったし」
 やっと少し顔を上げると、おでこが触れそうなほどすぐそばで目が合った。思ったとおり、いつもよりももっと、赤くなっているのだけれど。

「来れない時、ずっと考えてた。お前が、いてくれたらって。ここに会いに来れたらって。……けど、終わる前に来たら全部捨てて、甘えそうだったし」
 目を伏せて、ちょっと寂しそうな顔をして、彼はそう呟いた。
「練習してたんだ、一人で、ずっと。……ライブを見せたくて。誰よりも一番、お前に見てもらいたくて、だから」
 そう言った時、やっと、目元が少し笑った。今日の魁斗さんもすごく落ち着いた目をしている。努力して、納得いくまでやりきった人の顔つきだ。想像してみるのは簡単だった。ステージの上の彼はきっと、あのビデオの中よりももっともっと、きらきら輝いているんだ。本物の、王子様として。

「そう、だったんだ……ありがとう。ステージ、楽しみにしてるね?」
「うん……。けどずっと、頑張ってきたし。今日くらいは、さ。……その、今までの分」
 もう一度、腕が伸びて、その影がわたしを包み込む。頬に触れた指先の感触に惑わされるみたいに、全て委ねてしまいそうになった時に、ふと思い出した。
「あ……ま、待ってあの、まだお店閉めてないから……その、まだお客さんが、来ちゃうかも……」
「もうさ、閉店時間過ぎてんじゃねぇの?」
「うん……たぶん……でも今、何時だったかな……」
「わかんない……でも、いい。別に、誰に見られても」

 きっと制止しようとしたところで止められないのだ。彼にも、わたし自身にも。唇が触れ合う一瞬前に、互いの想いを確かめるみたいに気持ちがふっと重なって、交差する瞬間がすきかも、とか。たぶんそんな感情がちゃんと言葉になるよりも早く、ふらつくくらい甘い魔法にかけられていく。
 さっきよりもずっと長く、想いが深く伝わってくる。唇に触れた熱から、この先に訪れる不安も、会えなかった間の淋しさもみんな、ゆるやかに溶かされていく気がした。それは次に会える時までの、二人だけの約束として。甘やかさに全身の力が抜けてしまいそうになるから、彼の腕にぎゅっとしがみついた。窓を打つ外の雨はますますひどくなっていく。もうきっと今日は、誰も来ないから、あとちょっとだけこのままで。一瞬だけ唇が離れたときに、彼の息がほんのすこし震えているのが分かった。


「……チーズの、味がする」
 漸く、お互いを離した後で。厨房に向かおうとしたわたしに、彼はそう言った。
「えっ?……あ、チーズフォンデュ、今日も作ってて……。たぶんさっき、ちょっと味見してたから……」
「そっか。……ありがと。じゃ、そのチーズフォンデュ、もらう。せっかくだし」
 うん、すぐ用意するね、と久しぶりのフォンデュの出番に急いで鍋を火にかけようとしたわたしの背中を追うように声がした。
「……お前のも、美味しかったし。……ごちそうさま」
 目を逸らしたまま、また真っ赤になって。ぼそりとそう呟いた彼に、さっきのことを思い出して、彼に負けないくらい赤くなった自分の頬を慌てて両手で押さえた。
 わたしだって本当は。
 さっきの甘さはまだ、口の中に残っている。




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カイトくんに出会ってから、すっかりチーズフォンデュが好きになりました





(2013.4.5)