背後でドアの閉まる音が聞こえた瞬間に、春歌は悟った。

やってしまった。

 バスは重たいエンジン音を残し無情に走り去っていく。目の前のバス停に書かれた文字を何度確認しても、それは春歌が降りたかった停留所のひとつ手前の場所であることを示している。辺りを見回してみると木々や緑はあれど、周辺に民家どころか建物や商業施設的なものはなく、道の先は緩やかに上りの傾斜が続く丘、向こうには山肌をくり抜いて作られたトンネルらしきものが見えた。 風はきついが天候だけは穏やかで、春先の、まさしくのどかといえる風景が広がっている。頭上からは鳥のさえずりまで聞こえてきた。都内を離れて少し郊外に来ただけなのに、賑やかさとは無縁、いっそ牧歌的と言ってもいいくらいだ。

 幸いにも目の前の道は分岐もなく真っ直ぐに続いていたため、バスが通れるこの幅の道を辿っていけば迷うことだけは免れそうだった。そうやって少しでも希望を見出そうとしたが、土地勘のない春歌には、次の停留所まで歩いてどれくらいかかるのか見当もつかない。とにかく勝手の知らない場所に取り残された事だけは間違いなかった。
 ここで途方に暮れていても仕方がない。時計を確認し、目的地に向かって歩き出す。今日は行き慣れた都心ではなく郊外のスタジオに向かう途中だった。今そこでは来月の春クールから始まる新ドラマの撮影が行われている。シャイニング事務所所属タレントも数人メインにキャスティングされており、春歌はそのサントラの一部を任されることになっていた。
 こういった仕事は初めてではなかったが、これまで経験があるものとはだいぶ趣の違うドラマで、今日はキャストに混じって春歌も、イメージを掴むため主な撮影の舞台となる郊外のスタジオに入ることになっていた。ラブコメやホームドラマ、学園物などは経験があったが今回はそれとは異なるサスペンス、一話完結の推理物で、キャストもよく馴染みのある先輩ということもあり、普段とは違う重圧もあった。時期的にそろそろイメージも固めて形にせねばならず、気も急いていた。行きの間じゅうあれこれと考え事に耽っており、そしてふと春歌が我に返った時、乗っていたバスはとある停留所に停車したところだった。そろそろ降りる場所だったはず、そう思ったとき扉が閉まりそうになって、バス停の名前を最後まで確認することなく慌てて飛び降りた結果、春歌は今こうして知らない道を歩く羽目になったのだ。

 道は真っ直ぐだけど緩く上りに傾斜していて、できるだけ急ぎたい気持ちとは裏腹に少しずつペースも遅くなる。少し早めに家は出て来ていたが、それでもこの先どれぐらいで辿り着けるのか分からず、焦りと心細さだけが膨らんでいく。どんな事情であれ、新人の春歌が入り時間に遅刻するわけにはいかない。なんとかバスを降りた時に見えていたトンネルの入り口まで差し掛かったが、出口はここからだと見えない。不安に駆られたまま、とにかく足早に先を急ごうとした時、すぐ傍でキッと自転車の止まる音と共に、聞き覚えのある声がした。
「あっれ〜、後輩ちゃんだよね?どうしたのこんなところで」
 見上げると、例のドラマのキャストのひとり――自転車に颯爽とまたがった寿嶺二が隣に止まって、やや驚いた顔でこちらを見ている。帽子をかぶって上着の襟くらいは立てているものの、アイドルだというのに変装らしい変装もしていないため、声を掛けられなくても、もしかしたら通り過ぎる時に気付いたかもしれない。
「おさんぽ?……にしちゃあ、へんぴな場所だよね。もしかして君も、スタジオに行く途中?バス停、いっこ向こうだけど」
「は、はい……実はその、間違えて一つ手前で降りてしまいまして……」
「ああ〜。……まあ、無理もないかなー。似たような景色が続くもんねここ」
 確かに一本道が延びているだけで、歩いてる間も周りの風景はあまり変わり映えしない。下手すると地元民でも間違えるからね、とフォローするように嶺二は軽く笑ってみせた。
「ぼくんちの実家こっちの方にあってさ。事務所の寮よりは近いから、最近店の手伝いがてら、こっちから撮影に通ってることも多くて。こうやって自転車でね」
 あ、これもトレーニングの一環だから!と付け加えると、嶺二は自分の肩越しに後ろの荷台を指した。
「乗ってきなよ、後輩ちゃん。ここからじゃまだ、スタジオまでだいぶあるし」
 それはつまり、嶺二の自転車の荷台に腰掛けて、二人乗りを促しているのだとようやく気付くと、春歌は慌てて首を振った。
「そ、そんな……さすがにそれは申し訳ないです……。それにこんな場所でその……二人乗りなんてしてて、もしも誰かに見つかったら……」
「だーいじょうぶ。だってさっきからほら、周り歩いてる人誰もいないよ?後輩ちゃんも誰ともすれ違ってないでしょ?この道を通行するのって車がほとんどだから、まず歩行者なんていないし、目に入らないし」
「そ、それでも、もしおまわりさんに見つかったら怒られます……」
「そしたら、今はドラマの撮影中だって言えばいい。青春してるウブな二人のワンシーンなんだって」
 いたずらっぽくそう言ってみせたが、それでも先輩に漕がせるなんて申し訳ないとあくまで渋る春歌に、嶺二は少し真面目な表情になると小さく息を吐いた。
「……間に合わなくなっちゃうよ?仕事に。……君はさ、入り時間に遅れそうな後輩を見かけたのに、それを見捨てるなんて冷たいこと、ぼくにさせないよね?」
 そこまで言われては、春歌はもう、嶺二の申し出を固辞する理由など持ち合わせてはいなかった。
「すみません……よろしく、お願いします……」
「きーまり!さあほら、早く乗った乗った!」

 後ろに腰掛けたことを確認して、ゆるく続く坂道を嶺二は漕ぎ出した。すぐにトンネルの中に入る。外の日差しが遮断された場所は、光が降り注ぐさっきまでとまるで別世界のようで、強張ってひやりとした感覚に肌が包まれる。風がいっそう強まった気がした。嶺二の言った通り、それに平日の時間帯のせいもあってか、人通りはおろか車の通りもあまりない。たまに、エンジン音とともに後ろから車が二人を追い抜いていった。トンネルの中には安全のために車道と自転車用道路を隔てる柵が設置されていたが、それでも薄暗く狭い通路ですぐ傍を車が通り抜けるたびに身の危険を感じてびくりとする。
「しっかり掴んでて。でないと、落っこちちゃうよ?」
 前からそう声が聞こえて、春歌は慌てて、気持ちばかり服の裾を掴んでいた指を、嶺二の体の前に伸ばした。中学以降はずっと寮生活で、最近はそもそも自転車に乗る機会があまりなかった春歌には、男の人との二人乗りなど初めての経験だった。腕をどこに回していいかも分からなかったけれど、とにかく離れないようにとせいいっぱい腕を体の前の方に持っていく。頬に触れた背中の熱が温かくて、細身だけれど上着の上からでも、男の人らしい固く締まった体つきを感じる。こうしている間はせめて真っ赤な顔を見られずに済むことだけが、今の春歌の救いだった。
「風つよいねえ」自転車を漕ぎながら、なんでもないいつもの調子で嶺二は言った。
「春一番が吹いたかな?」
 今日は朝から強風だったし、時期的には、そうなのかもしれない。もっとも、細いトンネルの中だから吹き込んでくる風の強さもひときわ強まっている気もする。
「そう、かもしれません」
 けれど今、春歌はそれほど冷え込んでも、強風に晒されてもいない。ほとんどは前にいる嶺二で遮られているのだ。きつい向かい風の大部分を受け止めてくれているのは自分の前にいる嶺二だということを、春歌は知っていた。
 また一台、車が行き過ぎていった。流れ去るオレンジのテールランプが描く軌跡をぼんやり眺めながら、もしここをひとり歩いていたら、と春歌は考える。天井の方に点々と小さな明かりが連なってはいるけれど、昼間でも薄暗く、どこまでも続いているかのような出口の見えない長いトンネル。周りから隔絶された世界。先の見えない不安に、間に合うか分からない焦燥感も加わって、そんな中でここにひとりいたとしたら。身震いするような思いがした。たまたま先輩が通りかかって、声を掛けてくれなかったら。こんな暗いところをわたしは手探りのまま、ひとりで歩けたのだろうか。

「……後輩ちゃんはさ、今の生活、楽しい?」
 相変わらず顔を出口の方に向けたままで、ごうごうと鳴る風の音に混じって、嶺二の声が聞こえた。
「あ、はい。……とっても、楽しいです」
 おずおずと、けれど周りで響く風の音に消えないようにがんばって春歌は声を出した。
「自分の作った曲を尊敬するアイドルのみなさんに歌ってもらえて、それをたくさんの人に聴いてもらえて。ここに来てから毎日、いろんなことがありましたけど……すごく、かけがえのない経験をさせてもらってますし、それに、自分が自分でいられる感じがします。まだまだ足りないことも多くて、周りのみなさんにご迷惑をかけたり、助けてもらうことばかりですし、学園を卒業してからも……いえむしろ今の方が、勉強の毎日なんですけど、それでもわたし、ここに居られてよかったって思うんです」
「そっか、そんならよかった」
 僅かな勾配とはいえ、全体的にはゆるい上り坂が続いているはずだ。それでも、後ろに春歌を乗せて、息一つ切らしていない。トンネルはなめらかにカーブしていく。
「……でも、後輩ちゃんはさ、もっと人を頼っていいと思うよ。何でも一人でしようとしないで。ぼくも、おとやんもトッキーも、他の先輩や事務所の仲間たちだって、見守ってる人はたくさんいるんだからさ。頼れるものはなんでも頼って、使えるものはなんでも使う。それがここでやってくコツだし、というか必要なことだから。助けを求めることを怖がらないで。もっと気をラクにしてほら、なんならぼくちんを見習うといいよ。でなきゃぼくみたいに、息のなが〜い業界人にはなれないよ?」

 春歌は背中越しにその声を聞いていた。おちゃらけた調子の話し方だったけど、嶺二はすごく真面目な顔で言っている気がした。見守ってる、という言葉が春歌にはとても温かかった。とぼけた様子で、なんでもないようなフリをして、それでもちゃんと見てくれている。本当はひとりでなんて歩くことはできないのだと知っていて、暗闇の少し先の方から、立ち止まりかけた手を取り引いてくれる。今まで身近には居なかったけれど、こんな存在に春歌はひとつだけ、心当たりがあった。

 困っているところに颯爽と現れた嶺二は、まるで往年の、ステレオタイプなヒーローのようだった。いわゆる戦隊物にそれほど深い造詣もない春歌にも分かる。どこにでもいるような近所のお兄さん風で、普段はいまいち冴えない主人公は、いざとなるとカッコよく変身してヒロインを救い出す。カメラが回ってるわけでも、演じているわけでもないのに、普段の立ち居振る舞いで地のままにそれをやってのける、そう思わせる素質があるところは、嶺二はやはりまさしく、押しも押されもせぬアイドルなのだ。
 マウンテンバイクでもBMXでもなく、ご丁寧に荷台までついた自転車に乗ってやってくるヒーローは、いつだってここぞという時に手を差し伸べ、いつだってみんなの憧れで、いつだってヒロインのハートをさらってゆく。

 ゆるいカーブの先に、ようやく出口が見えた。長いトンネルを抜けた時、また目前にはいつもの世界が戻ってきた。暗さに慣れていたぶん、光の強さに瞬間目が眩む。やがて視覚が馴染むと、周りには先ほどと同じ、のどかで穏やかな景色が延々と続いている。
「この辺りに並んでる木って、なにか知ってる?」
 同じペースで自転車を漕ぎながら嶺二が問いかけた。春歌は、いえ、と背中で首を横に振る。
「桜なんだよね全部。今年はまだ咲いてないんだけど」
 言われてみればごつごつとした特徴的な黒い樹皮にはなんとなく見覚えがある。それでも葉がすべて落ちた、まだ芽吹く前の桜の並木は寂しげで、ぱっと見た目には枯れ木とほとんど見分けすら付かない。
「ずらーっと並んでさ。見ごろになるとすっごくキレイなんだよねえ」この辺りが満開になるのはもう少し先なんだけど、と言った後で、嶺二は付け加えた。
「でもぼく、今の状態もキライじゃないんだよね。なんか楽しみっていうか。これからどんな花を咲かせるのかなあって思ってさ」
 どこか嬉しそうな様子で嶺二は言った。蕾のまま、咲く機を伺っている桜の木々を通り過ぎながら、春歌は満開になるその日の様子を頭の中で思い描いてみる。そしてその頃には、嶺二が出演するドラマもオンエアされていることだろう。僅かでも、ううんできるだけ、自分もその力になれるように。いいものにしたい、と改めて春歌は思った。
「……後輩ちゃんも、楽しみだけどね」その言葉に春歌はふと我に返る。
「けど、後輩ちゃんは真っ直ぐがんばりすぎちゃうから。まあ、それが君のいいところでもあるんだけど、さ」
 そう言われて、背中に埋めたままだった顔を上げると、ずっと前を見ていると思っていた嶺二はいつの間にか顔を横に傾げて、肩越しにこちらをニコニコと眺めていた。
「ま、前を向いてください……!その、あぶないですし……!」
 そしていつの間にか、背中にくっついていることが当たり前のようになっていた自分に気付いて、慌てて春歌は姿勢を正した。ごく自然にそうしていられたのは、振り落とされないためではなく、そのことに安心感を覚えていたせいなのかもしれない。だけどそれよりも、赤くなった顔を見られたのかどうかが、今の春歌にとっては一番の問題だった。
「もうすぐスタジオだから。あとちょっとで着くよ」
 少しだけ隙間を空けた距離で春歌は、嶺二の声を聞いた。それはこの時間の終わりを告げる言葉。
 さっきよりためらい気味に回した腕から、ぬくもりが離れるまで、もうあと少し。

 スタジオに入るちょっとだけ手前で、春歌は自転車を降りて、すぐそこで偶然出くわした風を装って門を抜けた。敷地内ですれ違うスタッフにも特に怪しまれた様子はない。時間にも無事、遅れずに済んだようだ。これから二人は別れ、それぞれ違う控え室へと向かう。
「間に合って良かったね、後輩ちゃん」
 別れ際に、嶺二は立ち止まり声を掛けた。
「すごく、助かりました。本当にありがとうございました。お仕事、がんばってください……。それから、あ、あの…………」
 うれしかったです、とその後に言おうとして、春歌はその言葉を続けていいものかためらった。嬉しかったのは、入り時間に遅れずに済んだことなのか、困っていた時に声を掛けて助けてもらったことなのか、それとも。言ってしまうと、また顔が赤くなってしまう気がして。
 律儀に何度もお辞儀をしてから、春歌は自分の控え室の方へ駆けて行く。駐輪場に向かって自転車を押そうとして、振り返り、春歌が角を曲がるまでずっと嶺二が見守っていたことに、春歌はまだこの時気付いていなかった。







(2013.3.5)