何度目かの寝返りを打とうとして浅い眠りから覚める。窓の外にはもう夜明けが来ていることに美奈子は気付いた。辺りは静まり返ったまま、セットした目覚まし時計もまだ鳴っていない。じっとしていれば、誰かに朝を告げられるまでは、夜更けと何も変わらない。ひざを抱えるように布団の中でうずくまった後、再び眠りに就こうとして向きを変えた時、カーテンの隙間からこぼれる光が視界を照らした。部屋の薄暗さを裂くように朝日が細く長く、窓辺に寄せて置いてあるベッドの上を越え床の上に線を落としていた。
 ぼんやりとした頭でいまは何時くらいだろうと考える。昨晩は早めに布団に入ったけれどなかなか寝付けずに、結局明け方までずっとまどろむだけの眠りが続いていた。動かなくてはならないし、どちらにせよもう深く眠ることは無理だと諦めて、美奈子は鉛を纏ったように重く感じる上体を漸く起こした。

 日差しを遮る厚いカーテンを思いきって引くと、窓の外には雨模様だった昨日までとは違う、澄んだ色の空が広がっている。遠くの山の向こうから朝焼けと一緒に、静かに一日が始まっていくのが分かった。まだ薄い雲が残ってはいたけれど、外は初春らしい穏やかな光に包まれていて、それを浴びる庭木の緑色も昨日までよりいくぶん輝いて見える。今年の冬は例年に比べとても暖かかったけれど、先週は雨が多かったから美奈子は少し心配していた。せめて今日の日は春めいた、気持ちよく晴れ渡ったお天気になることを願っていた。去年のこの日がやはりそうであったように。

 まだ遠のいている意識の中、枕元に置いてあった時計に目を向ける。思った通り、家を出る時刻にはまだずいぶん早い。こんな時間に起きたのももしかしたら久しぶりだ。ベッドから抜け出すと、イスの背に掛けてあったカーディガンを羽織り、目を覚ますためにとりあえずなにか飲みに階下へと向かう。マグカップを手に再び部屋に戻った時、美奈子はベッド脇のテーブルに置きっぱなしになっていたアルバムに目を留めた。長い間クローゼットの奥にしまい込んだままになっていたそれは、昨夜急に見たくなって久しぶりに取り出したものだ。分厚く豪華な装丁で、表紙には金箔押しのアルファベットで綴られた校名と校章、そして卒業年度が刻まれている。美奈子はベッドに腰かけてマグカップを置き、代わりに深い臙脂の表紙のそれを自分の膝の上に乗せると、重たい表紙をめくった。

 理事長からの祝辞が綴られた扉の後には、懐かしい同級生たちの顔が並んでいる。ミヨやカレンの姿を探しながらいくらかめくったところで、大迫学級のページが目に入った。少し高いアングルから見下ろしたその写真には、周りの生徒達にもまれるようにして囲まれた、クラスの中心で笑う大迫先生の姿が見える。きっと今年も、こうして受け持った生徒達に寄り添い、笑顔で彼らを送り出すに違いない。
 まだほんの一年前だというのに、ずいぶんと遠く、懐かしい風景に思えた。並べられた写真と、それぞれから溢れてくる思い出。写真の隙間に書かれた文字は、忘れかけていた日常の小さな出来事を美奈子に思い出させる。
  はばたき学園の生徒として、この写真の中でみんなと一緒に笑っていたのは、ついこの間のことのようで、けれどこの写真の後、自分の知らない一年という月日がここでは流れている。意識しなければあっという間に過ぎ去ってしまうけれど、それは物事を大きく変えるのに十分な時間だ。

 各クラスを紹介した見開きページの後には、学校行事のスナップが時系列に沿って並べられている。体育祭、文化祭、今にして思えばとても貴重な経験と言える、毎回まばゆいほど豪華だったクリスマスパーティーの様子。二年目に行った修学旅行の時の集合写真もある。その次は各部活動の紹介ページだった。所属していた柔道部でページをめくる手を止める。
 嵐に誘われた時、入部した動機を美奈子ははっきりとは覚えていない。でも今にして思えば、なにか新しいことに挑戦したかったのかもしれない。もっとも、当時はまだ学園公認の部ではなく、ふたりきりの小さな小さな同好会だったけれど。あの頃まだ部として存在すらしていなかったなんて、今から入ってくる新入生が聞いたら驚くかもしれない。それほどまでに柔道部は今では部員もかなり増えて、大会でも好成績を安定して収められるようになっていると聞いている。そんな話を耳にするたび美奈子は、部の創設に関われたことへの誇らしさと、まるで自分が褒められたような気恥ずかしさと、何より純粋な嬉しさを感じた。だがそれも嵐の創った柔道部をしっかりと引き継ぎ、根付かせてくれた後輩達がいたからに他ならない。たとえばこの写真で、まだ板に付いていない白帯の道着を纏った彼のような後輩がいてくれたからだ。
 たまたま切り取られた部活動中の一枚のスナップ、その小さな写真の中で、美奈子は部員たちのことを見守っていた。まだ新しい道着に身を包んだ新名も、その中に混じっている。それらすべてが日常で、自分にとって何も特別ではないシーンだった。振り返れば、熱気に包まれたあの頃の柔道場の空気を今もしっかりと思い出せる。だけど今だったら、たとえばこの場面に立ち会った時、自分はどんな表情をするのだろうと美奈子は思う。
 学園のいろんな施設や、お世話になった先生方のページを一通り眺めたあと、アルバムの最後のページに挟まった、プリンタで出力された一枚の写真に美奈子は気付いた。ちょうど一年前の自分の卒業式前日、帰り道に新名と一緒に携帯で撮ったものだ。目の前まで来ていた、やわらかな季節の息吹を待つような冬の空は青く、今日と同じように透き通っていた。そして一緒に写った新名が笑っているのに、どこか悲しそうに見えることに気付いた美奈子の耳の奥に、ほんの数日前の夜の、絶え間なく雫が地面を打つ音が響く。掻き消えた彼の声。記憶の中で浮かんでくるのは冬の終わりの日、夜空に咲いた目にまぶしいほど色鮮やかな……
 突然、美奈子の脇で目覚まし時計がけたたましい音を立てて鳴り始めた。いつの間にか、起きる予定の時刻になっていたらしい。急いでアラームを止め、その写真をもう一度、本の最後のページに折れないよう丁寧に挟み直すと、もうすっかり冷めてしまったマグカップのコーヒーを最後まで飲み干して、着替えるために立ち上がった。


 角をいつもと反対方向に曲がると、かつては毎日歩いていた、よく見覚えのある通りが遠くに見えてくる。別にバスを使ってもよかったのだけれど、時間も十分あるし、なにより今日は歩いて行こうと決めていた。風の温度は冬を思わせるようにまだ少し冷たい。季節が入れ替わる途中の凛とした空気の中でも、すっきりと晴れた空からは春先らしい柔らかな日差しが注がれている。ここは住宅街の中だから草っぱらがあるわけでもないけれど、森林公園あたりで転がったらきっと気持ちがいいだろう。こんな春めいた光の中だと全てが輝いて見えるのは、一年前と同じだと美奈子は思った。
 かつて三年間、自分が通った道を辿っていくごとに、記憶もゆっくりと巻き戻されていく。川に掛けられた長い橋に差し掛かると、向こうの方にはばたき山が見えてきた。あと二週間もすれば桜目当てのハイキングシーズンで、この時期を楽しみにしているはばたき市民で賑わうはずだ。この川は山の方から来て支流を集め最後には海岸へと流れ込む一級河川で、山の手前、市内唯一の釣り堀にも繋がっていた。
 多く釣ったほうが勝ち、負けたほうにおごる、とあの時彼に言われた言葉をふと思い出す。釣り初心者の美奈子が勝つことはないのだからと、彼は初めから勝敗の見えている妙な賭けを提案してきて。まあ確かにその後、新名の言うとおりになったのだけれど。

 頭上を覆うように枝を伸ばした桜が風に揺れて、川面に花びらを散らしていく様を日が暮れるまで、いつまでも眺めていた。それはまるで時の流れを見ているようだった。静かで周りに人も無く、喧騒から遮断された場所、水面に落ちた白い花片がせせらぎに浮かんで、流れに任せてたゆたい、川下へと流されていく。それらがゆるやかに次々と音もなく続く。二人で出かけた中で、一番会話をしないで過ごしたあの日のことは不思議とよく覚えている。今も胸に刻まれた桜は淡く降り注ぐように綺麗だった。新名の印象がそれまでと少し変わったのは、あの頃からだったのかもしれない。本当は内緒にしておきたいはずの、桜がきれいな秘密の場所で。周りからの見方を気にして誰にも言ったことのない趣味を自分にだけ打ち明けてくれたことも、今だったら、その本当の意味を理解できたのだろう。

 学園に通っている当時、新名とは話も価値観も合い、部活も同じだった所以で特に仲良くなって、頻繁にと言っていいほど、よく一緒に遊んでいた。けれどそれらは何ら特別なこともない学生生活の日常風景だった。他の誰かと一緒に出かけることもあったし、部活やバイトに励むのと同じ、日々を楽しむこと、それらを思い出として刻むこと。美奈子にとっては、アルバムを作っていくようなものにも近かった。新名は高校時代最も仲の良かった異性の友人のひとりで、それ以上のものではなかった。
 だから美奈子の卒業の日、講堂の扉が閉まり学び舎を後にした時、高校生ではなくなると同時に、そういった気軽で他愛もない関係もみんなここで終わってしまうのだと思っていた。実際に、学園でまことしやかに囁かれた教会伝説というものもあったけれど、もちろん新名はそこには来なかった。
 それぞれが居る未来は違うのだと思っていた。人は変わっていくものだ。終わりがあることも知っている。自分も留まらず先に進んでいくだけで、これから新しい出会いも出来事もたくさんある。でもそう考えた時に限って、かつての学園での何気ないやりとりや、一緒に眺めた景色のことを美奈子はよく思い出すようになった。


 白い色のソーダは夏の匂いがする。部活帰りに、たまたま出る時間が同じになった時、美奈子はよく新名と途中まで一緒に帰った。そんな時決まって立ち寄っていた自販機は、二人の家へのちょうど分かれ道にあった。ここで白いソーダを買って、立ち飲みしながら少し話して、お互いに軽く手を振って、それぞれ違う道を歩き出す。明日もまたすぐ会えるから、そうしたら、次はどんな話をしよう。そんなことを考えて背を向ける。
 卒業後、お互いの生活が変われば連絡も途絶え、そのうち縁が切れるのだろうと思っていた関係は、結局それからも続いた。新名とは卒業後も連絡を取り合い、誘い出されることも、呼び出すこともあったし、折に触れてよく一緒に出かけていた。その度に、新名からは学園のいろいろな話を聞いた。主将を務める柔道部が練習試合で勝った時のこと。最近入ってきた、スジのいい新入部員の話。中間試験で惜しくも学年首位を逃したこと。引退の時期を控えて、託す後輩を考え始めたこと、そして受験や進路のこと。少しずつ、美奈子の知らない話題も増えていった。同じ高校生ではないという隔たりを、日を追うごとに重みのように知っていく。

 二人で会った後はいつも途中までではなく、自宅まで送ってくれた。家までずっと一緒に歩くのに、道すがら、夏になるとやっぱり分かれ道のあの角で同じソーダを買った。飲みながら家の前に着き、あの頃のように二人で少し喋る。背中でわたしに手を振って、来た道を戻っていく新名を見送った。次はいつ会えるのだろうとぼんやり考えた。言おうと思っていた話は、次に言えるかは分からない。季節が流れるのと共に、曲がり角に落ちる二つの影が長くなっていく。少しずつ、手を振るまでの時間が長くなった。
 なにげないいつもの街角で、そんなありふれた出来事ばかりを思い出す。はばたき学園に近づくほど記憶が徐々に巻き戻されて、空いていた期間を埋めるように思い出を見つけては、ひとつずつ拾い上げる。
  何も特別ではない、普段眺めていたものばかりが無くなった時に大切なものを思い起こさせた。あの頃の自分も、一緒に歩いている時には何も思わなかったのに、離れてしまってから存在の大きさに気が付いたのだ。この痛みにも近い感情に心当たりはあった。それがいつからなのか、はっきりとは分からない、でも、どうしてなのかは美奈子にも分かる。
  口調は相変わらずだけれど、新名はあの頃よりも少しずつ大人びていって、それに比べて結局同じところで立ち止まったまま動けない自分がまるで幼く思えた。そんな自分を知られるのが怖くて、美奈子は臆病になっていった。
 今日、道の端に置かれた自販機のケースを覗き込むと、今年はまだ、並べられた商品はあたたかい飲み物中心に揃えられている。白いソーダは入っていなかった。


 小さな交差点を渡り、長いブロック塀が続く住宅街を通り抜ける途中、角を曲がったところで、まぶしいほどの黄色が目に飛び込んでくる。自分の背よりも高いブロックが続く一角に、垣根の上からあのアカシアは今日も咲いていた。花の中では決して強い色ではないのに目に焼き付く、まるで燃えるように濃い鬱金色。ずっと通っていた道なのに、今までは咲いていた事にすら気付かなかった。この角に差し掛かった時、美奈子の耳の奥にあの夜の、止むことのない雨の音が蘇る。
 先月の終わり、一週間ほど前の日曜日、あの日は朝から重たい雲がかかっていた。出掛けにリビングのテレビで天気予報が始まったのがちらと見えたけれど、久しぶりに新名に会うのに支度に時間を掛けたせいでぎりぎりになり、美奈子は予報を聞く前に傘を持たず慌てて家を出た。案の定、出かけた先の商店街で昼を回った頃から雨が降り始めた。日中はそれでもずっと屋内とアーケードの下で過ごしていたからなんとかなったけれど、帰る時刻になっても雨は降り止む気配がない。何もなしで突っ切れるような雨脚でもなく、新名とコンビニで二人分の傘を買うと、その夜もいつも通り、家まで送ってもらうために一緒に歩いていた。
「こんなに降るなら、傘持ってくれば良かったなあ。また家に傘が増えちゃう」
「あ、分かる。気がついたら雨降ってて、飛び込んだ先で買うから増えるばっか。ビニール傘とかいくらあっても、普段は使わねぇのに」
空に向かってちょっとうらめしそうにつぶやいた様子にふっと笑う。晴れてても、こんな雨の日も、一緒にいると自然体でいられるのは、自分だけでなければいいのにと美奈子は思った。
「あともうちょっとで、ニーナの卒業式だね」
「……あー、うん。もう今週で高校生活も終わりだっけ。なーんか、振り返ったら三年間とかあっという間。……来年の今頃って、オレ何してんのかな」
 普段と同じように今日も、他愛ない話をするつもりだった。けれどその言葉を聞いて、なんとなく先延ばしにしていたものを急に突き付けられた気がした。
 二月最後の日曜日で、まだ寒い日もあったけれど、冬は確かに終わりに近づいていた。一年というのはあまりにも短い。それに今回は、自分が卒業する時とはまた違う感情があった。新名が卒業してまた新しい環境に身を置いたら、今のこの関係は続いていくのだろうか、それとも。自分で振った話題のくせに、美奈子はその結論が出てしまうことが怖くなった。雨の音と、傘を差した二人の間の微妙な距離のせいなのか、少しずつ交わす言葉も少なくなる。

 雨で足元が緩み歩き難くなっているせいもあり、繁華街を抜け住宅街に辿り着く頃には、日はもうすっかり暮れて夜になっていた。やがてブロック塀が続く通りに差し掛かる。高校生の頃は、こうやって出かけた帰り道、なんとなく二人触れ合うことがあった。それは正しく言えば、美奈子の方が一方的にスキンシップを繰り返していたのだが、意識し始めた頃から、いろいろと考えすぎて臆病になり、逆に触れることは少なくなっていた。足元を叩く雨音を聞きながら、お互い無言のまま、隣同士に傘を並べて歩く。付かず離れずの距離を保っていた美奈子の手に、不意に新名の手が触れた。手の甲に急に重なった温もりにびくりとして、とっさに美奈子は払うように手を引いた。
「…………。アンタさ、自分からは触るのに、オレには触らせてくんねぇの?」しばらくの沈黙の後、その声が耳の奥にくぐもって聞こえた。半透明の傘に隠れて表情は伺えなくても、いつもの軽くふざけた調子ではない。どうしようもなく、悲しい響きにも聞こえた。なぜ触れ返すことができなかったのか、自分でもうまく答えられないまま鼓動が跳ねていく。そういうわけではない、でもどう伝えていいか分からない。
「……もう、これで最後なのに?」ぽつりと零されたその言葉は妙にはっきりと聞こえた。思い詰めているようにも、諦めたようにも思えた。ただ、最後、という言葉の重みがずしりとのしかかる。「……最後、なの?」顔を上げられないまま、それだけようやく聞き返す。何がなのかは、怖くて聞けなかった。新名もそれに何も答えなかった。二人の距離が少し開いて、ますますひどくなっていく雨脚の中を、ただ黙り込み俯いて歩いた。

 今年の冬は暖かく、例年より早く咲き始めたアカシアがもう花を付けていた。数え切れないほど何度も通った通りなのに、美奈子は今までそれを意識したことはなかった。
 美奈子は自分に何ができるのかを考えてみた。けれど考えるだけ分からなくなる。自分と彼との間には、自分の知らない一年というものが横たわっている。あれだけ文武両道ではば学でも顔の広かった新名のことだ、相変わらず女子からの人気も高いだろうし、先輩として部長として、ますます後輩たちからも慕われているのだろう。離れるほど、一年の差を強く感じていく。ずっと知っているのに、本当は何も分からないみたいに。自分のスペースがあるのか自信がなくて、踏み込むことを恐れていた。自分の知らない新名の姿に、今から距離を縮めることをためらってきた。だけどこのまま、新名が本当に自分の知らないところへ行ってしまうのは怖かった。でも臆病な自分はうつむいて、今は離れた傘の下で、冷たさにかじかんだ指先をぎゅっと握り締めることしかできない。
「……ニーナは、壊れるのが怖いって、思ったことある?」立ち止まった美奈子の声に、少し前を歩いていた新名も立ち止まる。いっそこの言葉は雨の音に消されて届かなくてもいいと思った。自分から切り出してしまったら、もう後戻りできない気がした。
 どうだろ、とこちらを向いて新名は答えた。
「でも今はそれ以上に、怖いことがあるし」傘を顔の前に差し掛けたまま、ゆっくりと近付いてくる声だけが鈍く響く。「アンタは知りたい?」美奈子の前まで来た新名は、感情を押し殺したような、ひどく低く落ち着いた口調だった。ばさりと視界の端になにか白いものが落ちたと思った時、手首を強く引かれて美奈子が持っていた傘は地面に転がった。遮るものを失い、急に耳元はひときわ大きな雨音に晒され、同時に肩に髪に次々と雫が叩き付ける。
「……また何も出来ないまま、後悔すること」
 その言葉だけ雨音に混じってかすかに聞こえた。やりきれない感情を押し殺した、でも掻き消されそうな声で。一年前、教会に、そんな単語が途切れ途切れに聞こえたが、終わりの方は雨の音に打ち消され聞こえなくなった。初めに落ちたのは新名の傘だとこの時分かった。目の前で雨に打たれ濡れていく彼は怒りや憤りではなく、ただひどく悲しそうに見えた。美奈子に寄りかかるように背中側の塀に手を突き、彼の瞳は、それでも逃げずにまっすぐに自分を見ていた。痛みを隠してきたような目だった。その肩の向こう側で、垣根の上に咲いたアカシアの黄色が黒い夜空にぼうっと浮かんで見える。雨に打たれているのに美奈子にはこれが現実なのか境目もなく、まるで夢でも見ているような気がしていた。
 初めは冷たいと感じていた冬の雨も次第に感覚がなくなってくる。雫が体を伝い、服の上から肌を濡らすまで染み込んでいた。雨粒が途切れることなく足元を穿つ横で、投げ捨てられたままの二本の白い傘が転がっていた。日曜の夜のこんな小さな裏通りだ。道行く人もなく、二人の存在に気付くのは静かにそこで咲いているアカシアの花だけだった。怖さはなかった、ただ彼を見ているとものすごく苦しい気持ちになる。それは彼がこれまで抱えてきた苦しみをようやく感じ取ったからだと美奈子は思った。こうやって間近で瞳を見なければ、きっと自分は分からなかった。壊れることをずっと恐れて踏み出せずにきた彼自身の苛立ちを、美奈子に重ね合わせているようにも見えた。
「……アンタは信用してんの?オレのこと」
 不意に新名が口を開く。答えなくても、美奈子の瞳を見てその気持ちを察したようだった。なんで、と、彼は自嘲するように呟いた。もう踏み出した以上は壊すしかない、その一瞬前の覚悟を確かめているようにも聞こえた。
「どれくらい?……たとえば、オレならこんなこともしないって信じてた?」
 一瞬ほころびかけた瞳の表情がふ、とまた真っ直ぐになって美奈子を見据えた。打ち付ける雨の音が耳の傍から離れ遠くなる。感じていた冷たさも、痛さも、体中の感覚が止まって、自分に近づいてくる瞳の青の色しか分からなくなった。逃げ出せないとも思ったし、今度は逃げようとは思わなかった。影が重なろうとして、瞳を閉じる瞬間に、後ろでアカシアの黄色が目に入った。新名が感じてきた苦しみも、悲しみも、後悔も、全てを受け入れるつもりだった。
 ……どれくらいの時間が過ぎたのか、長い長い間だったようにも、ほんの一瞬のことだったようにも思える。ざあざあと、遠くから少しずつ降り続く雨の音が戻ってくる。感覚が蘇るにつれ静かだった世界は、現実感を取り戻していく。何の触れる感覚もないまま、おそるおそる目を開けた時、新名は自分の前に立ち、足元を見つめて俯いていた。すっかり濡れて雫が流れ落ちる前髪に隠されて、表情はよく分からない。そして
「なんでなんだよ。……そんなだから、アンタを、傷付けられない」
 搾り出すように彼はそう言った。かろうじて聞こえるくらいに微かに言葉を零す。思いを貫いて、力づくで奪って、押し切って、その先も、それが望みならば身を委ねることで、変わればいいと思った。変えられずに来たことを悔やんだ彼は今、力なく俯いてそこに立っている。痛みをぶつけて何かを得るよりも、相手のことを考えすぎて動けなくなる。一年前の卒業式もきっとそうだったのだ。すがるような悲しい瞳をして、ずっと感情の狭間でひとり苦しんできたくせに。美奈子はそこに臆病な自分を重ね合わせた。押し切れずに、ぎりぎりのところでいつも相手を思ってためらう。だからそんな悲しそうな目をしているんだと思った。そしてそんな彼だと知っているから、わたしはニーナのことをこんなにも好きになったのだ。
 ずぶ濡れになっても雨脚はまだ弱まりそうもない。夜空に溶け込むように浮かんだ黄色い花の下で、彼の頬を伝っていたのは雨だったのか、美奈子には分からなかった。

 その後に交わした言葉は覚えていない。何も言わなかったのかもしれない。自宅前に着いた時、軽い立ち話も、次の約束も、いつものように手を振ることもなく、新名は背を向けた。去ろうとして、少し立ち止まり、小さくゴメン、と言った気がした。心配する母親から、ずぶ濡れになった理由を深刻に聞かれる前に、美奈子はバスタブに飛び込んで顔をうずめて少し泣いた。


 見上げると、澄んだ空を背景に濃黄の花びらが揺れている。決して派手なものではないけれど、無機質なブロック塀を彩るあたたかみのある花弁の色。今日は卒業式にふさわしい、穏やかな天候に恵まれた日だった。鈴なりに連なるアカシアは、これからの季節が花の本番だ。この道を通ると、美奈子はあの夜のことを思い出した。そしてあの日の彼のことを。アルバムの最後のページに挟まった一年前の写真、今なら新名のあの表情の意味が分かる気がする。誰だって失うことは怖いけれど、でも自分から動かなければ何も変わらない。あの真剣なまなざしに、今自分が応えられることはきっと一つだけだ。
 家を出てから、少しのんびりしすぎたかもしれない。日はだいぶ高くなっていて、体育館ではきっともう卒業式典が始まっている頃だろう。遠くに尖塔をたたえた三角の屋根が、春先の陽光を受けて輝いているのが見えた。式辞が終わり、教会の最後の鐘が鳴り終わる前に、今度こそ間に合うように美奈子は彼を迎えに行く。
 この角を曲がれば、はばたき学園はもうすぐだ。




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壊れるのが怖いとお互いが思ってる本当は臆病なふたりの話
アカシアの花言葉には『秘密の恋』というのがあります。





(2013.2.28)