ぼやけた意識から感覚を呼びさますように、大きな息をひとつ、ついた。それもぬるんだ春先の強い風にさらわれて、あっという間に流されて、空の上の方へとかき消されてゆく。一番好きなのは夏だけど、日ごとにだんだんとあったかくなって、春がちょっとずつ増していくような今の季節も嫌いじゃない。だけど今日だけは、自然と気持ちが弾むいつもの感じとは、少し違う気がする。吹きっさらしの風の中、空を見上げてもう一度俺は、大きく息をついた。

 4月11日。わたがしをちぎったような雲が大きく空いっぱいに広がって、上空を渡る強い風に飛ばされて、見てる間にも次々と形を変えては流されていく。その隙間に覗く空はとてもきれいで澄んだ色をしていたけれど、肝心の太陽はその雲のどこかに隠されて、今は鈍い薄光りが街全体を包んでいる。昨日よりもずいぶんと暖かくて、やたらと風が強くて、だけど普段の喧騒が急に途絶えたような、とても静かな日。

 生まれた時から俺が持っていたものといえば、一十木音也という名前と、今日が誕生日ということだけだった。今は、あまり考えないようにしている。だけど全く気にしてないって言えば、たぶんウソになる。だって誕生日が来る度に、どうしても思い出すから。自分がここにいる意味について考えてしまうから。誰かに祝ってもらいたい、知ってもらいたいって気持ちはもちろんある。だけど今日に関してだけは、なんだか普段のようには振る舞えなかった。
 いろいろ考え始めると止まらなくなるし、ためいきをつくと幸せが逃げるって前に誰かが言ってたから、3度目に大きく吐きかけた息は無理して飲み込んだ。そんな自分に、改めて自覚する。誰にも気付いてもらえないのが、やっぱり俺は怖いのかもしれないと。

 いっそのこと、今日一日じゅう仕事とか、なにか用事でもあれば、忙しさで紛れてたかもしれないのにって思いながら、理由もなくただ漠然と胸を埋める重苦しさを払いのけるように頭を振って、早乙女事務所の敷地内を、俺は門の方へと向かって歩き出した。
 太陽は隠れてるけど、もう日は高く昇っている時間のはず。午前中の事務所での打ち合わせが終わって、今からは特に予定はない。ひとりでこれから街に出かけてもいいけどそんな気分にもなれなくて、おとなしく今日は寮に戻ろうかと考えた時、自然と頭の中をその名前がよぎった。
「春歌……いるかな……」
 特に今日のための約束とかはしていない。けどどうしても、せめて声だけでも聞きたくなって、俺はポケットの携帯に手を伸ばした。

「……音也くん!」
 耳の傍で呼び出し音が二回鳴った時、携帯のスピーカーからではなく、明らかに俺の背後からその聞き慣れた声がした。
「春歌……?」
 確認するまでもなく分かる、透明な声音に携帯を下ろし振り返った。俺の顔を見て、安心したような表情で彼女が駆け寄ってくる。聞きたいと思っていたその声の主が、まさかちょうど目の前に現れるなんて思ってなくて驚いたけど、それよりも今は正直、嬉しい方がずっと大きい。
「あの、打ち合わせだって聞いて、終わるのを待ってて……。今日、これから行きたいところがあるんです。もしこの後に用事がなければ、わたしと……その、迷惑でなかったら……」
「迷惑なんて、そんなわけないよ。だって俺もちょうど今から、春歌に会いに行こうって思ってたところだったんだ」
 気付けば自分の足も、自然と彼女の元へと向かっていたのだから。さっきだって空を見てて、一番最初に思い浮かべたのは春歌だった。会えたらいいなって、いま会いたいって、たぶん俺の方が強く思ってた。
「よかった……。じゃあわたしと一緒に、来てもらえますか?」
 いつもよりもどこか積極的に感じる彼女は、約束もなく出会えた幸運にまだ少し驚いたままの俺の手を取ると、こっちです、と嬉しそうに誘った。

 手を繋いで小高い丘の、新緑に彩られた緩やかに続く坂道を一緒に登っていく。どこに連れていくつもりなのか、あそこからはもう結構歩いていて、懐かしい早乙女学園の建物も遠くに見渡せるくらいになった。事務所を出た時には空を覆いがちだった、わたがしのようなあの雲は、今は風に散らされてすっかり気持ちのいい青空に変わり、辺りには春らしいうららかな光が降り注いでいる。それほど急な勾配ではないから、登っていくのも苦しくはない。

 初めて訪れた、見慣れない場所だったけど、先へと進むにつれ、春歌が何を見せようとしてるのか俺にもだんだんと分かり始めた。二人の間を通り抜けていく小さな花びら。その数は近づくにつれ数を増し、風に漂ってまるで春の雪のように辺りを舞い始める。その風景の中へ足を踏み入れるごとに、この世界の色鮮やかな輪郭がどんどん淡くなって、ぼやけてやがて滲んでいくみたいに、例えるなら、幼い頃に見た絵本の世界にいつの間にか紛れ込むように。

 パステルカラーに染まった風景の真ん中で辿り着いた場所には、樹齢何年か分からないくらい古くて大きな、桜の木が佇んでいた。ちょうど満開のあと、散り際に差し掛かったその一本の桜から、風に飛ばされて次々と薄いピンク色の花びらが散っていく様は、なんだかこの世のものじゃないような不思議な光景に思えた。
 陽射しの匂いや空気までも春めいて、頬を撫でていく風の柔らかさが心地いい。それに乗って雪のように舞っていた花びらは、雪とは違って触れても冷たくないけど、いつまでも終わりなく降り積もるわけじゃなくて、限りある花が終わるまで、その枝に残っている最後の一枚が散り落ちるまでのもの。それは今だけの、ほんの限られた時間のみに許された、とても脆くて儚い風景なんだと俺にも分かった。でもだからこそ、こんなにきれいだと思うんだろう。

「……見たかったんです、一緒に。今日なら、特別きれいだと思って」
 ここに連れて来てくれた春歌もまた、目に映る光景に心を奪われた様子で、木の下から枝越しの空を見上げている。散る花びらに紛れて、明るい色の髪が春風に優しくふわりと揺れた。その存在も、まるで描かれたようなこの世界に溶け込んでいるみたいに思えた。
 それに何よりも今日、一緒に見たいって思ってくれた彼女の気持ちが嬉しかった。ずうっと先までいつまでも思い出に残りそうな桜の色。君が見せたかった景色は幻想的で、絵のようで、なんて言えばいいのか、うまく伝えられないけど夢みたいに、本当にすごくきれいだし、それに
「君もだよ」
「えっ? ……あの、なにか言いましたか?」
 途中で風に掻き消された言葉に、うっとりと桜の枝を見上げる薄紅を差した横顔が、俺の方を振り返ってちょっと不思議そうに訊ねて、それからにっこりと笑った。


 大きな桜の木の根元に並んで座り込んで、そのまましばらく二人で枝が落とす影を眺めていた。
 街から外れた丘の上、辺りには誰もおらず、聞こえてくるのも遠くからの鳥の鳴き声とか、風の音だけ。だけど、何もなくても一緒にこうしていられるだけで幸せだった。最近忙しくて、あまり二人でどこかに出かけたり、のんびり過ごす時間がなかったせいもあるけど、何よりもこうして一緒にいるのが好きで、それが自分には必要な時間なんだと改めて思う。全部委ねて目を閉じたくなるような居心地の良さはきっと、春歌自身が俺にとってほっとする、暖かい陽だまりみたいな存在だからかもしれない。一緒に居てくれるだけで、いろいろ思い悩んで見失いかけた自分自身を取り戻せて、曇りかけた気持ちも少しずつほぐれていくような気がした。

「……あの、音也くん」
 それまで俺の隣で行儀良くひざを折りたたんでちょこんと座っていた彼女が、不意に思いつめた顔をして名前を呼びかけたかと思うと突然、ばっと音がするくらいの勢いで、腕を大きく広げてみせた。
「あ、あ、あまえてください!!」
 予想外の急な申し出に意図を掴みかねて、俺がしばらくぽかんとしていると、春歌の頬がみるみる真っ赤に染まっていく。
「……その、せっかくだから今日、何かしてあげたいと思ったのですが、わたしにはめぼしい特技もなく、何ができるか一生懸命考えた結果、いつもわたしが音也くんを頼って甘えてしまってばかりなので、今日は逆にいっぱい甘えてもらおうと……なんだって思いきりどーんと、受け止める覚悟で来ました……!」
 それだけを一息に説明すると、熱が引かない顔を伏せるように恥ずかしげに俯いてしまう。そんなところもいちいちかわいいな、なんて今もし言ったらきっと、もっと顔が赤くなっちゃうんだろうけど。
「甘えていいの?……ほんとに、どんなことでも?」
「は、はい!ど、どうぞ!」
 じっと目を見て近寄ると、今にも顔から火が出そうになっている。ホントはこのままもっとドキドキさせたかったけど、これを言うためにすごく緊張してた春歌の様子がなんだかおかしくて、それに何よりもそうやって考えてくれたことが愛しくて、俺はくすくすと笑って彼女にひとつリクエストを出した。
「……それじゃあ、膝枕、してくれる?」

 あったかい光が落ちて、その中で風にそよぐ梢の影が淡く揺れている。地面に肘を突き、おずおずと差し出されたスカートから覗く膝に、そっと頭を預けた。昔に戻ったような、どこか懐かしい気持ちになる。不思議なほどの安心感と、そして受け止めてもらえる喜びに満たされたように。
 我慢することに慣れて、わがままなんて、もう長い間言ってなかったかもしれない。親に対して、ほんの小さなわがままを言ってみること、それがきっと甘えるということ。けど、それは叶わなかった。幼い頃預けられた施設の先生たちには、とても良くしてもらったけれど、自分の為だけの存在じゃないということは分かっていた。
 でもこうして君に出会って、君が教えてくれたことがある。抱きしめた時の人のあたたかさを。自分のことを抱きしめてくれる人がいる幸せを。
 彼女の手のひらがそっと俺に触れて、指先で梳かすように優しく髪を撫でた。ちょっとくすぐったくて、でも気持ちよくて。
 俺はずっと、こんな何でもないような日々に、小さくても幸せを感じたかったのかもしれない。
 春歌はいつも甘えてるのは自分だって言ってたけど、俺だってずっと君の優しさに甘えてる。
 家族と同じように安心できる、彼女は全てを預けられるたったひとりの大切な存在で、自分の生まれた日を覚えていてくれて、自分だけの名前を、愛しさを込めて呼んでくれる人。
 もしも今の自分に怖いものがあるとしたらそれは、失うことなんだと思う。幸せで美しいものは、みんなこの桜の花びらのようにとても儚いものに思えて。
 だけど俺はもう何も、失いたくないから。

 彼女に頭を預けたまま、膝を立てて体をひねり、仰向けになる。
 すぐ真上に、春歌の顔があった。急に仰向けになった俺と目が合ってびっくりしたのか、彼女はちょっぴり恥ずかしそうに頬を染めてはにかんだ。
 俺を見下ろす彼女の耳の傍からこぼれ落ちる髪が、穏やかな春の陽光に透けてきらきらと輝いている。春歌の顔がちゃんと見えるようにそれを掬って、そっと耳にかけた。
「俺、こうしてて、重くない?大丈夫?」
「はい、大丈夫です。……音也くんは、優しいですね」
 不安な気持ちを拭い去るように、いつ見ても大好きなその笑顔が、まっすぐ俺にだけに向けられていた。

「音也くんが生まれた日も、今日みたいな、とても気持ちのいいお天気だったんでしょうか」
 誰にともなく、遠くに思いを馳せるような顔つきで春歌がふと、そんなことをつぶやいた。
「わたし、こういうふうに晴れた日って好きです。なんだか、音也くんみたいだから」
 にこっとそう言ってから視線を落とし、俺の目をじっと見つめた春歌は、なんだか自分のことのように嬉しそうだった。
「いつも明るくて、すごく正直で、誰に対してもおおらかで。それに勇敢で、まっすぐで、お日様みたいに、ちょっとまぶしくて。いつだって優しく包み込んで照らしてくれる。つらい時も、一緒に笑い合う時も」
 その言葉のひとつひとつに俺はただ黙って、耳を傾ける。そして彼女は、髪をそっと撫でてくれていた手を止めた。
「音也くんが生まれてきてくれたことを喜んでいる人、この世界に、たくさんいると思います。わたしもその中のひとりです。
 お誕生日おめでとう、音也くん。生まれてきてくれてありがとう。あなたに出会えて、本当によかった」

 感情が押し寄せるように、耳から伝わる言葉が不思議なほどに温かく、じんわりと胸の奥を満たしていく。自分という存在を認めてもらえる、そのことでこんなにも救われるんだと改めて気が付く。
 もしも俺が生まれてきたことに何か意味があるのだとしたら。それは俺も誰かのための存在になれる、誰かのために生きられるんだと気付くことなのかもしれない。春歌の言う通りなんだとしたら、俺は本当に幸せだと思う。なによりも今感謝してるのは、出会えてよかったって思ってるのは、俺の方でもあるのだから。
 俺たちはまだまだこれからで、そしてこれから先もまだずっと続いてく。信じられる未来へと。だからその途中の、こんなに晴れた穏やかな、とても気持ちのいい日には。
「……春歌」
 心からの、愛しさを込めて名前を呼んで、手を伸ばしほんのり桜色に染まった柔らかい頬に触れる。
「……ありがとう。今、俺きっと、世界で一番幸せだよ」
 こんな気持ちの伝え方しか思いつかないけれど。髪を撫でてた春歌の手を取ると、手のひらを合わせて指を絡めた。もう片方の手で彼女の髪先をくぐって、細い首の後ろにそっと沿えると顔を引き寄せる。 
 突然でびっくりしたように大きく開かれたその瞳が閉じられる瞬間に、キスをした。
 ぬくもりの伝わる距離に、君がいてくれることに感謝して。






(2012.4.11)