光の傾き方で時の 移り変わりが分かる。カーブを曲がったところで、下り坂に入った電車は速度を上げた。
 やわらかな蜂蜜色に染まる街を抜けて郊外へと向かう路線。帰宅ラッシュにはまだ少しだけ早い時間。二人で並んで覗いていた電車の車窓が線路脇を走る車のテールランプを追い越して、遠くまで続く家の屋根の向こうに、そろそろ深い色に変わり始めたゆるやかな傾斜の山並みを映し出す。
 周りの人々もみな思い思いのことにふけり、まだそれほど混み合う前の車内にはカタンカタンと小気味よく、レールをはじく音だけが響いている。

「……ねぇ、あそこにあるの。あれが一番星かな?」
 張り付くようにして窓の外を眺めていた音也が、急に高い空の先を指差した。
 窓枠いっぱいの空はちょうど黄昏時の夕映えが広がる、昼と夜の境目のような色をしていた。屋根の向こうに隠れたばかりの太陽が、空全体に朱と紫が混じり合うグラデーションを描いて、連なって浮かぶ薄い雲の端を、ぎりぎり沈み切る間際の斜陽が茜色に縁取っている。こういうのをマジックアワーって言うんだって、どこかで聞いたことがあるのを春歌は思い出した。まぶしい昼間が静かな夜を連れてくるその瞬間を切り取ったみたいな、きっとちょうど、こんな色の空のことを指しているんだろう。
 その色合いの中、空の高みの方に、小さいけど確かに、いま輝き始めたばかりの星の光が見えた。
 二人でこうして電車に乗るのは久しぶりのことだった。今日はオファーを頂いた小さなイベントの手伝いの帰り道で、この後はもう一緒に寮へと帰るだけだ。今回の仕事は出演者ではなくアシスタントの一人、出番だってそれほど多くはなかったけれど、どんな小さな依頼でもひとつひとつを大切にして、いつも本気で取り組みきちんと全力を出し切る。そうやって向き合ってきた彼のことを、早乙女学園を卒業してからもずっと、春歌はいつも一番傍で見守ってきた。
 こうしてパートナーとして彼の仕事に付き添っている時、ステージの上に立つ音也の姿を見るたびに改めて感じる。やっぱりその姿は誇らしくて、自分はそれを見ているのが純粋に好きなのだと。今日だってそうだったように、たとえ短い時間であっても、ステージ上での彼はオーラをまとって輝いて、カッコよくてみんなの憧れの的で。きっと立つべくして今、ここに立っているのだと思わせるほどに。彼のパフォーマンスを見れば自分だけでなく、誰もがそう信じて疑わないはずだ。けれど今、目の前にいる彼はまるで子供みたいな表情に戻って、何か珍しいものでも見つけたように嬉しそうに、移り変わる空の色をじっと眺めている。それはきっと、本当は出会ったときから何も変わっていない彼自身のありのままの姿で、そしてできることならこれが、今は自分だけが知っている彼の表情であればいいのにと、春歌は心の中で気付かれないようにそっと願った。

「こうして二人だけで電車に乗るのって、結構久しぶりだよね」
 窓際に体を預けるように外の景色に目を向けたまま、音也も昔のことを思い出していたのか、過ぎ去った遠くを見るような顔つきで呟いた。
「そうですね……学園にいた頃もずっと寮生活で、電車に乗る機会はほとんどなかったし、二人でこうやって過ごすのは、ちょっと懐かしいかも」
 卒業してからは実際、今日のように仕事で移動することもたまにはあったけれど、二人きりで乗る機会というと、考えたら数えるほどしかなかったかもしれない。こんなふうにゆっくり車窓を眺めることなんて本当に思い出せないほど久しぶりだった。穏やかな夕暮れの風景を窓に映すその電車も、春歌たちが降りる駅まではもうあとわずかで到着する。住宅街を走り抜けた電車はひとつ手前にある停車駅へと近づき、速度をゆるやかに落としていく。
「懐かしい……そうだよね、あれからもう……。……あっ!そうだ、いいこと考えた!」
 ホームに滑り込み、駅に完全に停車する間際、突然電車の中で音也がそう叫んで立ち上がった。
「ど、どうかしたんですか?」
「行こうっ!」
 説明もなしに、勢いよく春歌の手を取って力強く引くと一番手近なドアへと向かう。
「で、でもここ、まだわたしたちの降りる駅じゃ……」
「大丈夫! ねっ、ほら一緒に来て!」
 まるで二人を迎えるように、タイミング良くなめらかに開いたドアの向こうへと、春歌の手を繋いだまま音也は駆け出した。


 首筋を抜けていく風がもうひやりとした感触に変わっていた。薄暮に包まれた路地裏では街灯も並んで灯り始める。どんどん濃い色へと移ろう空を背景にしてぽつりぽつり浮かんだ雲の合間に、電車の窓から見えた一番星は、さっきよりも少しだけはっきりと輝いていた。隣に寄り添うように並んだ、別の小さな星の光も見える。
 駅を出てからもそのまま、二人でずっと手を握り歩いていた。いつもの最寄り駅よりひとつ遠いけれど、寮の方向に向かって一緒に道を探しながら。
「ごめん、いきなり電車飛び出したりして。何、っていうわけでもないんだけどただ急に、どうしてもこうやって君と、手を繋いで歩きたくなっちゃって」
 そういってえへへと、屈託のない顔をして音也が笑った。
「いえ、ゆっくりこうして外を歩くことって最近ずっとなかったし、その、こういうのも嬉しい……です」
 やっとそれだけ言って、気恥ずかしさについ俯いてしまったけれど、繋いだ手のひらから伝わってくるぬくもりのように、こうしていると不思議と心の中がじんわりと温かい気持ちで満たされていくような気がする。きっとそれは、寒くない?ってふとした時に気にかけてくれる、彼の優しさのせいでもあるのだろう。
「うん、俺もだよ。こうやって一緒に歩くの久しぶりだし。……ねぇ、そういえば前から聞きたかったんだけど、曲ってさ、どんな時に思いつくの?」
 隣を並んで歩きながら、音也が尋ねてきた。
「えっ……うーん、そうですね、やっぱりメロディが自然に浮かんでくる時は、きれいなものを見たり、楽しいことがあったり、心に残る素敵な出来事があったりする時が多いかもしれません」
「そっか。……作曲ってすごいよね、昔、俺の心を打ったのも音楽だったし、やっぱり曲って人の心を動かす力があるんだよなあ」
 今は周りに他に人の気配はなく、二人きり並んで歩く足元に、街灯の淡い光に照らされてできた薄い影だけが伸びている。
「俺、春歌の曲に、ちゃんと見合う歌詞を書きたいって思う。正直、初めの頃は何を書いたらいいか分かんなくてちょっと苦労したけど、今はね、歌詞が自然に浮かんでくるようになったんだ。……君といるだけで、毎日がすごく楽しいから」
 改めて目を見てそう言われると、くすぐったいような、恥ずかしいような心地になって、合わせたばかりの視線をまた外して俯いてしまった。
「そ、そんな……でも歌詞だってすごいと思う。歌詞はその人自身の言葉だから。わたしは、音也くんの書く歌詞が好きですよ」
 それはまぎれもない本心だった。彼自身を表したような、気持ちをまっすぐに乗せた歌詞は、きっと聞く人全ての心にも、同じように届くことだろう。
 ふと、藍色が強まった天に浮かぶ星を仰ぐように、音也が空を見上げた。静かな夜の帳がいつの間にかもう街全体を包み始めている。
「俺、いつかあの星みたいになる。たくさんの人に春歌の曲を聞いてもらえるアイドルになって、そんで一番高いところへ君を連れていってあげる。君に、もっともっとたくさんのいろんなものを見せてあげたいんだ」
 そう言った音也の瞳は本当にきらきらしていてまぶしくて、でも未来を見据えたまなざしはすごく真剣で。そんな横顔をこうやって覗いていることが、春歌にとって今はとても嬉しくて、幸せだった。


「ねえ、もう少しだけゆっくり歩こう? ……まだあとちょっとだけ、帰りたくない」
 ひとつ手前で降りて歩いていたけれど、寮まではもう少しの距離、ここまで来ると今までに何度か通った道も出てきて、周りの景色もだいぶ見覚えのあるものに変わっている。
 空はだいぶ暗くなってきたけれど、きゅっと強めに握り返された手のひらに、表情を見なくても伝わる気持ちを感じて、春歌は無言で頷いた。
「……そういえば、こうしてて思い出しました」
「えっ?何を?」急に切り出した春歌に音也が不思議そうに聞き返した。
「わたし以前にもこうやって、手前の駅で降りて歩いたことがあったんですよ。……あっ、あれは歩いたというより、全力疾走したの方が、正しいんですけど。入学式の日に、学園に行こうとして電車に乗っていたけど、人に流されて手前の駅で降ろされちゃって。あの時は一人だったし、遅刻しそうだったから、すごく焦りました」
「……ごめん」
 そこまで言った時、ふと顔を曇らせて目を伏せた音也の様子に気付いて慌てて向き直った。
「音也くん……?あの、どうかしたんですか……?」
「……入学式の日。人に押し流されてく君を見てたのにあの時、俺、何もできなくって。助けてあげられなくてごめん。俺があの時、電車の中でしっかり手を握ってればよかったのにって、あれからずっと後悔してたんだ」
 ああ、と春歌は言葉を飲む。優しいこの人は、いったいいつからそんなことを思ってくれていたのだろう。それだけ言って悲しそうに俯いた音也を見ると、春歌自身もどうしようもなく悲しくなってしまう。あれは自分がぼんやりしていたせいで、彼のせいなんかじゃないのに、それを責めている彼にうまく説明することも、今の彼に掛けてあげられる言葉すら見つからない。
 それならせめてと、春歌は歩みをやめて道端に立ち止まり、振り向いた音也の手を、自分の両方の手のひらでぎゅっと握り締めた。あの日、自分を繋ぎ止めようと伸ばしてくれたこの優しい手のひらを。彼の大きな手は今も、自分の両手でもはみ出るくらいだけれど、せいいっぱいの思いで包み込むようにして。うまく言葉では言えないけどだからこそ、口で説明するよりもきっとこの方が伝わる。
「……もう、離さないでいてくれますよね? これからはもうずっと一緒で、はぐれたりしませんよね?」
 それが今の春歌が応えられる唯一の方法で、音也への嘘のない、心からの気持ちだった。
「春歌……。あぁ、もう……ねぇ、今キスしてもいい?」
「えっ?で、でもここはその、道の真ん中ですし……」
「どうしても今したい。寮までガマンしようと思ったけどもう待てないよ。ねぇ、俺にキスされるの嫌?」
「いや、じゃ……ない、です……」
「よかった。君に一秒でも長く触れていたい。一秒でも長く一緒にいたい。……大好きだよ」
 彼のもう一方の手が首筋に添えられる。温かい体温を手のひらでじかに感じながら、その場でぎゅっと手を握り合ったまま、引かれるようにそっと唇が重なった。
 素直にまっすぐに気持ちを表すことが以前の自分には怖かったけれど、今はそうしても大丈夫なんだって思えるようになった気がする。どれほど正直に気持ちをぶつけても、こうやってありのまま、まるごと受け止めてくれる人がいるから。
 それでも音也が言ってくれる大好きの言葉は、何度言われてもこそばゆくて、恥ずかしくて、慣れることができずにどうしても、もじもじしてしまうけれど。
 空を照らす太陽みたいにまぶしいこの人のおかげで自分も、勇気を出して、心からの笑顔を人に見せることができるようになれたのだと思う。
 二人して頬を寄せて、なんでもない、ささいなことに笑いあう。それだけでいつしか自分も心強くなって、今までと変わらない何気ない日常でさえ、これまでよりもずっと素敵で楽しいものに思えてくるような気がした。
 どれくらいこうやっていたのか、やがてゆっくりと唇が離れると、真っ赤になった頬を音也が覗き込んで、またぎゅっと抱きしめられる。
 彼ならば、きっと本当に見せてくれるだろう。今まで自分が見たことのない景色を。ぐいと勢いよく、どんなものにも決して挫けないその強さで手を引いて、たどり着いたことのない高い場所へと連れて行ってくれると思う。これまでどんなことだって乗り越えてきた彼だからこそ、これからも自分自身の力できっと夢を掴まえるのだろう。目標に向かってまっすぐ駆け上がってゆくその姿を一番傍で、彼の一番近くで、ずっと寄り添って見ていきたいと、暖かな腕に包まれたまま春歌は改めて願った。

 あの電車の中で最初に見つけた一番星も、もうすっかり暗くなった夜空の中ではっきりと輝いている。
 誰もいない街の隅っこ、寮まではきっとあと数百メートル、でもここでふたり足を止めたまま、今はまだ動けない。ふたりの頭上に広がる、すっかり暮れなずんで濃くなった空一面に、もっともっとたくさんの星がまたたき始めるまで。








(2012.1.31)