目をつむって、高く、遠くまでよく通る声にじっと耳を傾ける。この場所でこうしているのは初めてのはずなのにふと、以前にもこんなことがあったような、どこか妙な懐かしさを覚えた気がした。
 心地よい歌声に委ねながら思いを巡らせてみる。この感覚を前に感じたのは、いつのことだったんだろう。でもそれを頭が思い出すよりも早く、わたしのまぶたの裏にはあの時の風景が自然と呼び起こされ、みるみる鮮やかな色彩を持って広がってゆく。

 ああ、やっぱりそうだ、と自分にあいづちを打つように心の中でつぶやいた。わたしはあの日の気持ちを、今でもはっきりと覚えている。
 歌詞もメロディもめちゃくちゃな即興だったけど、でも不思議とその歌を聴いているとすごくワクワクしてきて、なんだかここにいるのが、とてつもなく幸せで嬉しいことのように感じられて。気付いたら、いつの間にかわたしもその声に合わせて一緒に歌い出していた。聴いているだけで、わたしをとても自由にさせてくれる音楽。こんなことは今までの人生を振り返ってみても、初めての出来事だった。勝手も知らない場所で、ひどく人見知りなわたしが、それも今日初めて出会った人と一緒にいきなり歌を歌い始めるなんて。

 入学式、そんなふうにして一番最初に出会った日からずっとそうだ。彼は心の底から音楽を楽しんでいて、歌うことを愛してやまなくて、それが彼の歌声を聞いた全ての人に伝わってゆく。そんな魔法みたいな感覚を覚えたのも、決してあの日、一時の高揚感に流されたせいなんかじゃないって確信できる。だって今もこうして、彼の歌声に身を任せて目をつむると、見えないはずの景色がその時のまま蘇ってくるのだから。音也くんの声の向こうに、みずみずしく目に映える芝の緑と、あたたかくなり始めた春先の風の匂い、二人でこっそり抜け出したわたしたちの上に広がっていた、あの日の突き抜けるように透明な空の色が。


 アコースティックギターの最後の一音が宙に溶けるように消えると、わたしは目を開け、寮の部屋の床にぺたんと座り込んだまま、たった今まで目の前で歌っていた音也くんに向かい、思わず惜しみない拍手を送っていた。
「え、そんなに良かった? ……へへ、なんか照れちゃうな。けど、君にそうやって喜んでもらえるのって、ほんっとに嬉しい」
 そう言い終わるよりも先に、お日様にも負けない零れるような笑顔になった彼がわたしを見る。
 薄い窓の向こうからは、朝から降り続く穏やかで柔らかな雨の音が小刻みに聞こえている。春がもうそこまで来ていることが、夜の冷え込みの和らぎからも伝わってくる3月の初めの日。出会って、わたしたちがパートナーとなってから、早くも一年近くが経っていた。
 卒業オーディションまでもう間もない今の時期、わたしたちは平日休日問わず寸暇を惜しんで籠もりきりになっては、こんなふうに練習や相談を重ねている。……そうはいっても、最近ではさすがにレコーディングルームの予約はなかなか取れないので、休日ということもあり今日は寮の音也くんの部屋にこうして集まっていた。同室の一ノ瀬さんは朝から出かけているようで、ここに来てからはずっと二人きりで過ごしている。向かい合って床板の上にじかに座り込んで、お互いアイデアを出し合ったり、それを歌ってみたりするうちに、いつも通り時間だけがあっという間に経ってゆく。そしてこれもまたいつも通りに、いろんなパターンを試してるうちに音也くんが、さっきみたいに急に自由に歌い出したりもして。
 でもわたしはきっと、こうしていることがとても楽しくて、そんな彼の姿を見ているのがとても好きなんだと思う。どんなに小さなスペースでも、たとえ二人しかいない寮の一室だって、音也くんが歌えばそこはライブ会場で、そしてわたしは今、それを聴く権利がある唯一の観客。それに出会った日、わたしが確かに感じた気持ちは、これからも変わることはないのだろう。わたしは彼の歌がまっすぐに大好きだという気持ち。それを、もっともっと聴いていたいと素直に思った気持ち。

「あーあ、今日もし晴れてたら、一緒に外でデートしたかったのになあ」
 レースカーテン越しの窓の向こうにうっすら覗く曇り空をちょっとうらめしそうに見上げて、彼がそう呟いた。
「でも、もう卒業オーディションも近いですし。……それにわたし、こうして練習してるのだって、ほんとはすごく楽しいんです。音也くんの歌を聴いていると、それだけでなんだかすごく幸せな気持ちになれて。もちろん、わたしの歌を歌ってくれているということもありますけど……それ以上に、やっぱり音也くんの歌声が好きだなあって、今も改めて思ってて」
 ちょっと俯きがちでそう言うと、彼が黙って窓の外に向けていた視線をわたしに戻したのが分かった。
「……それに、今はわたしだけが、こうして歌を聴かせてもらえるから。……もちろん、もっともっとたくさんのみなさんに、早くこの歌声を届けたいって思います。……でも、こうして音也くんの歌を独り占めして聴いていられるのは、今はわたしだけの特権ですから」
 行きがかり上とはいえついそんなことを口走ってしまって、なんだか音也くんの目を改めて見るのが恥ずかしくなり、慌てて目の前に散らばった楽譜を集めては必要以上に丁寧に床の上で揃えたりしてみる。
「……そういうふうに思ってくれてたんだ。ありがとう、春歌にそう言ってもらえるの、すっげー嬉しい。他の誰かに歌をほめてもらえるのよりも、多分ずっと。……それに俺も、こうやって独り占めしてられるの嬉しいよ。春歌の歌も、それから、春歌自身のことも」

 不意にがたりと床の上にギターが置かれた音がした。手元の楽譜に落としてた視線を上げると、いつの間にかわたしのすぐ前の床に手のひらを突いて、四つん這いになった彼が間近でじっとわたしの顔を覗き込んでいる。どきりとしたのを見透かしたみたいにそのまま、わたしの方に迫るように少しずつ彼が距離を縮めてきた。
 いつも以上に逸らすことなくまっすぐに間近で見つめられて、せっかく合わせた目を思わずまた伏せてしまった。恥ずかしくて避けるように背後に逃げてもひるむことなく近づく彼に、どんどん顔に血が昇っていくのが自分で分かる。きっと今、隠しようもないほど耳まで赤くなってしまっているかもしれない。

 結局、これ以上は下がれない壁際にまで追い詰められて、唇が触れるくらいすぐ傍に顔を寄せた彼の、吐息まじりの囁きが頬にかかる。
「ね、キスしてもいい? 君のこと独り占めしてたい。もう、ちょっとの間も離してたくない」
「……あ、あの、でもここも一応学校の敷地内だし、誰かに見られたら……その、急に一ノ瀬さんが帰ってくるかも……しれないし」
「誰かに、……トキヤに見られたら、困る?」
 ふいに訴えるような、とても真剣な双眸がわたしを見た。
「俺は別に、他の誰に見られても困らないよ。……それにその方が、春歌がもう俺だけのものだって、みんなに知ってもらえるし」

 ぎりぎり触れ合う手前の、壁際に追い詰めた状態で、彼の指の先がわたしの髪をくぐる。手のひらが首の後ろに添わされた瞬間に強引に引き寄せられると、もう逃げることはできなかった。求められるまま、重なってゆく唇を受け入れる。初めは軽く触れるだけだったようなキスも次第に深い角度に変わり、衝動に流されるようにお互いを求めるうち徐々に激しくなって、舌を絡ませ合い、わずかに息をつくことさえも許されない。恥ずかしくて、瞳を開くことができず彼に全てを委ねたまま、でも首の後ろに添えられた彼の指先の熱に、ぎりぎり呼び覚まされる意識を保っているのがやっとだった。
 一瞬、唇を離してもまたすぐに重なり、まるで一秒でさえも、1mmさえも離したくないというほどに、飽きることなく何度も彼に繰り返し奪われていると、理性とか、誰かに見られる不安とか、恋愛禁止令のことだって全部頭の中から溶け出していき、もうこのままどうなってもいいとさえ思えてくる。
 唇を重ねながら、彼がもう片方の腕をわたしの背中に添わせ、二人の間に空いた僅かな隙間さえも埋めるように、ぎゅっときつく体を抱き締める。目を閉じていても──だからこそ感じ取れる掠れる息と、わたしを包む彼の匂いと、わたしより少しだけ高い体温。
 どれくらいの時間が経っているのかも分からない、こうしていると何も考えられなくなって。ただ普段の優しさとは少し違う、本能を揺さぶるような彼の真剣な激しさに、体の一番奥がじんとしびれて、このままとろけてしまいそうな気がする。

 これまで、わたしはこんなにも一途に自分という存在を求められたことがなかった。下の名前を男の子から呼ばれることだって、ここに来て初めてなくらいだった。だから最初は彼の一途な気持ちを手放しで信じることができなくて、ありのまま受け入れることが怖いと思うことさえあった。だけど今こうして、わたしに添えられている手のひらから、頬に触れる彼のまつげから、キスの合間、唇が一瞬離れた時に零れる、彼の震える吐息から、胸が苦しくなるほどにひたむきな彼の思いを素直に感じ取ることができた。その思いはまっすぐに受け止めていいものなんだと信じることができた。だんだん熱を帯びてきた彼の体から、言葉以上にはっきりとじかに伝わってくる。こんなにも強く、真摯に自分だけを想い、求めてくれていることが。

 初めのうちは緊張で強張っていた体も、そうして彼になにもかも委ね、望むまま重ねるうちにやがて体じゅうから力がすべて抜けていく。ようやく彼が唇を離してくれた時、わたしは倒れ込むようにして腕の中に崩れ落ちた。彼はそれを受け止めると、相変わらず温かい手のひらで、落ち着くまで愛おしげにそっと髪を撫でていてくれる。
「……ほんと、幸せ。君とこうして一緒にいられるの。……ずっとずっと、こうしてたいな。今までの分を取り返すくらい」
 ぎゅ、と再び抱きしめられた腕の中で、わたしはまだ全然引かない頬の熱を見られないようにして、そっと頷いた。
「はい……。今まで……確かに先月までは、あまり一緒に過ごせなかったですから……」
「そうそう、ちょうどひと月前の今頃は俺、ヒマラヤで吹雪の中を彷徨ったりとかしてたんだよね。あの時はさすがにもうダメかと思ったなぁ。無事に帰って来られてホントによかったよ」
 そう言って、いつもと同じように屈託なく笑う彼の顔を見ていると、これまで二人でいろんな苦難を乗り越えて、今こうして傍にいられることに心から安堵し、素直に感謝したい気持ちになる。けれど一方で不意に、言い知れない妙な不安も心の中に仄暗い染みのように広がっていく。その人のことを好きになるほど、本気で求めれば求めるほど強まっていく感情。

 それは例えばいつかの健康診断での一件の時のように。あれはただの間違いだったとちゃんと分かってはいるけれど、もしも今、音也くんが自分の前から急にいなくなってしまったらと。どこかに行ったまま、本当に二度と帰って来なくなってしまったらと考えると、こうして傍にいてくれることがもう当たり前になった今の自分に、その状況をまともに受け止められる覚悟なんてできそうになかった。そんなことをひとりで勝手に考えたとたん、何の根拠もないのに急にとてつもなく大きな不安に押しつぶされそうな気がして、彼の胸に顔を埋めたまま、わたしはほんの少し震える指先で、離れないように彼の体をぎゅっと強く掴んでいた。
 わたしのそんな不安な気持ちをすぐに察したように、彼はその指を取り自分の温かな手のひらで包むと、まっすぐにわたしの瞳を覗き込む。
「大丈夫、だよ」
 心にかかった、理由のないもやをひとつずつ晴らすように、彼ははっきりとした口調で告げた。
「俺、どうしても君に会いたくって、そのために帰って来たんだよ。もう君の前から、いなくなったりしない。これからもずっと、傍にいるって約束するから」
 それでもまだ、どこか不安の拭い切れないわたしの瞳の色を見て、音也くんは安心させるようにちょっと微笑んだ。
「……まだ、心配? じゃあ、こうして」

 不意に前触れもなく、彼がわたしの首筋に顔を埋めると唇を付け、そのまま肌を強く吸い上げる。
「あ、っ……!」
 息が止まるような刺激が体を貫いて、彼に絡ませてた指を固く握り締めた。二度、三度と繰り返されるうちに、たまらずにただ、吐息のように抜ける声だけが漏れていく。くさびを打ち込まれたみたいに逃げ出すこともできず、キスとは違う、まるで自分の一部を奪われたように感じる彼の唇の感触と息遣いを、そうしている間じゅう味わわされて、眩暈を起こしそうになる。
「……あの時と同じように、約束のシルシ。もしまた不安になったら、ここを見て?」
 さっきまで首筋を侵していた唇が、ようやく離れたあとに耳元でそう囁いた。

 始めの頃は、びっくりするくらい大胆に、ありのまま気持ちをぶつけて来てくれる彼に、どうしたらいいのか分からなくてとまどったりもしたけれど。
 今はもう、認めざるをえないのかもしれない。音也くんと一緒に時を過ごして、いつでも包み込んでくれるその優しさと、裏表のない明るさと、誰よりも強い想いに触れているうちにいつの間にか、彼のことを心から信じ、本当に必要とし始めたのはきっと、自分の方なんだって。わたしが彼の歌声に惹かれ、そこに誰にもない才能と価値を見出し、やがて彼自身にまるで吸い込まれるほど心奪われたように、彼もまたわたし自身の存在を認めて、気が遠くなるほどまっすぐなひたむきさで、ありのままのわたしを受け容れてくれる。その幸せを、心地良さを一度知ってしまったわたしはきっと、感じ始めている。もうここから抜け出せないのだとしても、構わないのだと。

 ふらりと全身から力の抜けた体を彼の腕に抱きとめられる。
 彼の曇りのない澄んだ瞳にじっと見つめられていると、そんな自分の気持ちも全部見抜かれてしまうような気がした。恥ずかしさに耐えられなくて、つい視線を伏せたわたしを追うように、彼はわたしの顔を覗き込んで、そして流されるようにそのまま床の上に押し倒される。
「……あぁもう、君が、そんな可愛い声出すから……大好き。 好きすぎて、もう気持ち止められないよ……」
 覆い被さる彼の下で、流されてゆく自分の感情と現実との葛藤の中、なんとかして意識を振り絞る。
「だ、だめ、です……あの、もうすぐ一ノ瀬さんだって、帰ってくるかもしれないし……」
 そう言いかけた唇に、彼は自分の指をくっと押し当てた。
「ダメだよ。今は他の奴の、……トキヤの名前も呼ばないで。
 ……今日はもう、俺の名前しか呼ばせないから」

 泣きたくなるほど、痛いほど伝わる気持ちを、緋色の瞳が訴える。
 抑えきれないくらい大好きだから、今だけは、独り占めさせてと ──その時の彼の目は、まるでそう言っていたような、そんな気がした。







(2011.12.29)