殴られた時の鈍い音を、まるで人ごとのように聞いていた。転がった地面の固さでようやく痛みを知覚する。
空に斜めに突き刺さる無機質な鉄塔が、倒れて歪む自分の視界のはじに映り込んだ。

薄暗く淀んだ場所で俺がそれを見つけたのは、そんな時だった。

立ち向かうだけなら、いくらでもできた。
吹っかけられるたびに、馬鹿みてえに真正面から受け止めてきた。いつだってそうだ。
俺たちは単純に、今までそういうふうな生き方しかできなかった。

口元だけに笑みを含んで上半身をゆっくり起こす。倒れた俺の方がまだ余裕があって、
殴りかかってきた奴等の方が切羽詰まった色を隠し切れていない。
追い詰められたように相手は間を置かず、倒れてる俺に蹴りを放ってきた。

起き上がりかけた体が再び地面に叩きつけられる。じんとしびれる感覚が一瞬貫くように背中を走った。
だがこれぐらいで堪えるようなヤワさはあいにく持ち合わせちゃいない。

いつの間にか、ピアスの桜井兄弟といえばこの辺りではちょっとした有名人になっていた。
勝つまでやめない。それが俺たちの流儀でそのせいか、やられたら勝つまでやり返す、
同じような奴等からの挑戦が後を絶たなかった。 最近ではこうやって、俺がひとりでいるところを狙ってこられることもあった。
まあだからと言って、結果が変わることはない。 負けねぇし、例え負けても勝つまでやり返すだけだ。
場所を選ばず売られる喧嘩をその都度受けて立って、それを繰り返してきた日々。
いつからこうなったのか、はっきりとは覚えていない。いつの間にか始まり、そして抜け出せなくなった、出口の見えない毎日の繰り返し。
らしくない、はばたき学園を受験すると初めに言い出したのはルカの方だった。あいつなりにも、
そんな日々に思うところがあったのかもしれない。
目の前のこいつらだって、俺たちのその不釣り合いな滑稽さを内心あざ笑ってんのかもしれねぇと、鈍い痛みを抱えながらぼんやりと考える。

人目を避けて、俺を街の外れの空き地に連れ込んだこいつらも、覚えちゃいねぇが昔俺がそうやって倒してきた中の誰かなのかもしれない。
周りを建物の壁に囲まれ、長らく手入れもされてない様子で草も生え放題なこの空き地は、
一方的に手を出してきた奴等にとって格好の目隠しにもなっていた。

不意打ちをくらって倒されたものの、まだ何の本気も出しちゃいねえ。
奴等は俺が反撃に転じる前にカタをつけてしまおうとしてるのが見え見えだった。
こんな雑魚がたとえ何人まとめてかかってきたところで、俺一人で十分に相手にできる自信はあった。
勝つまでやめない。それが俺たちの流儀だ。
いい加減安易にやられっぱなしもここらで終わりにしようと、体勢を立て直すため瞬間、地面に手を突く。

俺がそれを見つけたのは、ちょうどそんな時だった。


……転がされて仰向けになった視界の先で、暮れなずむ空が刻一刻と深い色に変わっていく。
西日も当たらない空き地はまるで都会の死角のように、全て覆い隠しそうな宵闇に包まれ始めた。
いつまで経ってもまともに抵抗してこない俺を見くびったのか、最初見せていた怯えの色も消えて、奴等は横たわる俺の脇腹を容赦なく蹴り込んでくる。
いやな音と共に鈍い痛みが断続的に体を貫き、体をくの字に折って続けられる苦痛に耐える。
――まだ、痛みを感じられるうちは大丈夫だ。こいつらに簡単にのされる俺じゃねぇ。
痛みを散らしそう言い聞かせながら、だが俺は不思議とその時、もしかしたら妙に穏やかな気持ちでいたのかもしれない。

ひとしきり一方的な手出しをした後、勝ちを確信した奴等はようやく満足したようだった。
伝説の桜井兄弟も結局、最後はずいぶんと腑抜けになったな。そんな捨て台詞を残して。
俺がゆっくりと上体を起こした時にはもう奴等の気配は消えていた。

辺りの暗さが増している。時間は何時ぐらいになっただろう。今のはほんの短い間だった気もするし、ずいぶん長い時間だったような気もする。

――そうじゃねぇ。

耳の奥に残る捨て台詞にぼそりと呟いて、俺は片肘を地面に突いたまま、
奴等につぶされないよう、ずっと抱え込むようにしてきた腕の脇に目を落とす。
それは可憐で健気な姿で、でも確かにしっかりとそこに生えていた。
倒れた時に偶然目にした、むかし見覚えのある懐かしい花。
あれからもうずいぶんと長い時間が経ったのに、俺はまだ、今でも時々思い出す。
幼い頃の俺たちが3人で遊んだ日のこと。その時、あの教会に咲いていたサクラソウのことを。
こんな都会の空き地の真ん中で一輪だけ、儚げな姿を留めて立っていたその花を見た時俺は
とっさになぜか、守らなきゃいけねぇと思った。

昔ちぎって捨てた、その罪滅ぼしもあるかもしれない。けど多分それだけじゃない。

こんなにもか細くてひ弱なのに、それでも強い意志を持ってしっかりと自分の力で立っているこの花は、誰かに似ていた。
俺が、昔から知っている誰かに。
俺はきっと昔から、その花が好きだった。


――変わったんだよ。

結果的にこの花が、いま俺を終わりのない連鎖のひとつから救い出した。
俺はずっと、変わりたかったのかもしれない。

誰かに止めて欲しかったのかもしれない。
出口を探していたのかもしれない。
繰り返しばかりで終わりのない日々の出口を。

今それをようやく見つけられたのは、きっと守りたいと思えるものができたせいだろう。
俺をあんなに悲しそうに見る顔を、もうさせなくてすむように。
せっかくの綺麗な花びらを、もう散らしてしまわないように。


鉛のように重たい体をようやく起こすと、体にこびりついた泥を払う。
終わった途端、急にさっき受けた体中の痛みがぶり返してきた。
……あいつら、遠慮なくやりやがって。
そうこぼしたものの今は普段の喧嘩の後とはずいぶん違う気分だった。いつもの、勝ったのに覚える妙なわだかまりを感じなかった。

さっきまで紫の空に突き刺さってた鉄塔は、その先端が夜空に溶け込んでもう輪郭が分からなくなっていた。
すっかり闇に包まれた、がらんとした空き地を静かに俺は後にする。
俺以外は誰もそのことを知らない、でもそれでいい。
あのサクラソウを守れたことに、今までにはない、満たされた気持ちを覚えながら。







(2011.10.25)