勢いよく床を叩く水の音に混じって、遠くで何かが聞こえた気がした。
錆びた音をさせて蛇口を固く締めると、静寂に戻った部屋ではすでにもう何も聞こえない。足元に薄く溜まっていた
生ぬるい水が音もなく低い方へと流れて、指の間を抜けていく感触だけが残される。薄暗いシャワールームの中には、今日はもう誰もいないようだった。

扉に引っ掛けたタオルで濡れた体をざっと拭うと、更衣室と隔てる扉を押し開ける。
見ると天井の細長い蛍光灯のひとつが、寿命が来てるのか断続的に点滅を繰り返している。
ただでさえ薄暗い更衣室の中が今日は一段と暗く感じるのは、どうやらこのせいもあるらしい。

開けっ放しになった、ひとつだけある小さな窓の外遠くから、その時もう一度その音は聞こえてきた。
ここからでは多分、覗いても見ることはできないだろうけど、確かに聞き覚えのある重厚なその響きで今度こそはっきり確信する。

そっか、それで今日は……

ひとりごとのように呟いて、濡れたままの頭に大判のタオルを被る。厚みのある手触りの中に、妙な懐かしさを覚える柔軟剤のかすかな香りがした。

どうりで今日は学校に人がいないわけだ。柔道部だけじゃない、他の部活の奴らも今日はあまり見かけなかった。
もちろん夏休みの、それも日曜日にまで、自主的に部活に来るようなのはもともと少なかったけど。

(花火大会、か……)

そういえば先月だったか、ちらっとそんな予定を聞いた気がする、でも夏休みに入ってから普段以上に
部活のことばっか考えてたせいで、その話はすっかりどこかに飛んでしまっていた。
去年立ち上がったばかりの柔道部にも、何人か新入部員も入ってくれたし(半ば騙し討ちみたいな感じで入れたやつも含むけど)、
基礎力がついてきたらそろそろ他校との交流戦や、練習試合の段取りも考えないといけない時期だ。
あっという間の、めまぐるしい一年だった。まさかこんなにも早く、はばたき学園柔道部として試合出場が考えられるなんて、去年の今頃はまだ想像もしていなかった。

かすかに聞こえてくる花火の残響に、暗い部屋の中でひとり耳を澄ませる。
この音はいつも、毎年ずっと変わらない。
打ち上がったあと、いくらか遅れて響いてきてるだろうその音を遠くに小さく聞いていると、
いろんなことが頭の中で蘇る気がする。この時期の独特の匂いとか、昔の思い出。
柔道に打ち込んでた日々も、ちょうど今日と同じような夏の暑い日に、柔道を辞めた時のことも。

そしてこんなふうに不意に一人になった時、ふと考え込むことがある。
これでよかったのかを。改めて感じる、
自分が始めたことの重み。そしてこのあと、俺がどうしていきたいのかを。

遠くからでも力強い音が続けざまに聞こえてくる。今年の花火大会はまだついさっき、始まったばかりのようだった。

更衣室の扉を開けて表に出ると、宵の口になってもまだじめっとした蒸し暑い感触が肌を包み込んだ。
暗くなった夏空に、海の方から流れてくる、花火が残す煙だけが空の色にぼんやり重なっている。音は聞こえるけど、やっぱりここからでは花火は見えなかった。

その時不意に近くで名前を呼び掛けられて、よく覚えのあるその声の方に目を向けた。

「……なんだ、おまえまだいたんか」

俺が更衣室から出てくるのをずっとここで待っていたのか、彼女は部活用のバッグを提げたまま、自分と目が合うと、どこかほっとした顔をしたように見えた。

「うん……あの、一緒に帰ろうと思って」


二人並んで歩く帰り道の途中、打ち上がる花火の音の合間に、風に運ばれてどこかの軒下の風鈴の音が耳をかすめる。
この音だけで、夏の暑さもずいぶんとやわらぐ感じがするから不思議だと思う。

「あれ、南部鉄の風鈴かな」
ぽつりと呟いた言葉が、らしくなかったのか、ちょっと意外そうな顔して彼女が俺の方を見た。

「……詳しくはねえけど。でも師範の家で聞いた風鈴の音と、なんか似てる気がする」

「柔道の、師範?」

「ああ。やっぱり鉄の風鈴は、プラスチックとかの風鈴とは全然音が違う。
 なんていうか、ずっと涼しく感じる」

夏らしい、そんな音が呼び起こす思い出は今もはっきりと覚えている。師範に挨拶して、最後の稽古を終えて道場を出たあの日の帰り道も、今日みたいな暑い日だった。
はばたき城に寄って、天守閣から街を見下ろして。そんで、人目も気にせず大声出して泣いたっけ。柔道を辞めたくなくて。
あれから2年。今、結局柔道を続けているのも、考えればそれほど不思議はないことのように思う。というより俺にとって一番自然な結果のような気がする。

でも俺の信念を汲み理解してくれる人が現れて、俺自身が選んだその道が開けるにつれ、
――それはとても幸運なことだというのは分かってはいるけど、
同時にその重みは日に日にどんどんと増していく。
もう、自分だけの問題じゃない。そのことが、自分の道さえまだ見えていない俺を時々こうして考えさせていた。

風に乗って届く花火の音を相変わらず遠くに聞きながら、今度は彼女が俺の隣でぽつりと呟いた。

「今日、花火大会だったんだね」

「ああ、そうみたいだな」

「……ほんとはね、今日部活に来ても、ほとんど人がいないかなとは思ったんだ。
 でも逆に今日なら、今までちゃんとできなかったところの掃除もできるって思ったし。
 それに、やっぱり今日ここに来てよかったと思うよ」

隣に並んで、少し先の地面を見つめて歩きながら、彼女は言葉を続ける。

「今日は、ずっと嵐くんだけ見ていられたから。……あっほら、動き方の分析っていうか、
 マネージャーとして。最近は他にもたくさん、部員みんなの調子見てたから、
 昔みたいに専属ってわけにいかなかったし。
 ……柔道部、大きくなったもんね。初めは、二人だけだったのに」

「ああ、そうだな」

「去年よりずっと忙しくなったし、大変な時もあるけど、でもね、わたし嬉しいんだ。
 たくさんの人が、柔道に興味を持ってくれて。
 みんながこれからもっと、柔道のこと好きになってくれるといいね」

高校受験を機に失ったものを取り戻すために。その時ようやく俺にとっての、柔道の存在の大きさに気付いて。 
そう初めはただ純粋に、自分が柔道をやりたくて、もう一度畳の上に戻るために、創ったような柔道部だった。
でも今はちゃんとひとつの部として存在していて、顧問として尽力してくれる大迫先生も、
俺の挑戦を見守ってくれてる理事長もいて、何より俺の手で柔道の道に引き込んだ後輩もいる。俺の手を離れたところでもいろんな人を巻き込み動き始めて。
自分が来年、再来年、柔道を続けていられるかも分からない状態の中で。
この柔道部を作って本当に良かったのかどうかは、後輩達にとってここがこれからどんな意味を持つかで決まることだ。まだ今の俺には分からない。

でも柔道部が立ち上がり、こうして存在することを、
俺と同じくらい心から喜び、大事に思ってくれてるやつがいる。

意味なんて、今はそれだけでも十分だった。

これからどうなるのか、数年後の自分がどこでどうしているのかは分からない。
けど今は、これでいいと思った。
今こうして柔道を続けていられる、そのことだけで十分で、そのことを一緒に感謝できる相手が居る、それだけで。

「花火、ね」

急に思い出したように彼女が口を開いた。

「……ほんとは、今日誘おうかなって思ってたんだけど、気付いたのがついこないだで、間に合わなくて。……嵐くんは今日、花火大会見に行きたかった?」

もうすっかり夜に変わった空を仰いだ。
海辺から離れるにつれ、花火の音は少しずつ遠くなっている。

「いや。 ……俺は、こうしてる方がいい」

一瞬不思議そうな顔をしたあと、妙に顔が赤くなったこいつに向かって。何て言えば今の気持ちがまとまるのか分からないけど、言葉は足りなくても多分伝わると思う。
真っ直ぐに、心から、今の俺の精一杯の信頼と感謝の気持ちを込めて。

「もっと忙しくなる。だから、これからも頼んだぞ、マネージャー」

その言葉に、更衣室の外で会った時と同じ顔をして、彼女はにっこりと、でも力強く頷いた。




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シャワーから出てくるのを外で待ってるバンビは神田川のイメージでお願いします。
花火大会の日程すらおぼつかないほど流行に疎い二人ですが、
一応ニーナも入部済みの、二年目の夏。
夏の夕方の、昼間のまぶしさとは違うどこかちょっと寂しげな感じとか、
ゆったりとした時間の流れが出せていればいいなと思います。






(2011.8.23)