光とも影とも分からない、蒼い水の表面が反射して周りのものに映り込み、ゆらめく様はきれいだった。
まるで世界中のどんな色もそのゆらぎの前に打ち消されてしまうように。
もしかしたらこの世界にいま二人だけなんじゃないかって、そんなあり得ない発想でさえすんなり受け入れてしまえるほどに。
流れてゆく時間にせめて、もう少しだけ傍にいられるようにと、その時わたしはゆらぐ水面にきっと願っていたんだと思う。

部活終わりにはまだせわしなく鳴いていたヒグラシの声も、夜が落とす闇に飲み込まれるみたいにいつの間にか聞こえなくなった。
代わりにフェンス近くの草むらのどこかから、夏の虫の切なげな音が微かに耳に届き始める。

最近はいつも、帰り際に悲しくなる。ただ側にいたいだけなのに。
ずっとこうしていられればどんなにかいいのにって。
だから、部室を出て見上げた空が、そのまま帰ってしまうのがもったいないくらい綺麗な夕焼けだったとか、
立ち止まる口実なんてわたしには、そんなもので十分だった。

「……ねえニーナ」
「ん?」

今日幾度となく呼びかけた名前に、返ってくるいつもの声。
彼の声を聞いているのが好きだった。特に今みたいに、わたしにだけ向けられる時の声が。その瞬間だけは独り占めできているようで、嬉しかった。

照り返す熱と人目を避けるように、校庭の隅にあるプールサイドのフェンスにもたれて、
二人で話をし始めてからどれくらいが過ぎただろう。
できるだけ一緒に居たくて。帰るのを遅らせて、もう少し、あと少しだけと粘っているうちに
もう辺りはすっかり暮れて、夕焼けが綺麗だった空もすでに深い夜の色に変わっていた。

「柔道、ずいぶん強くなったよね。初めの頃と見違えるくらい」
「マジで、ホントにそう思う? ……あんがと。
 まぁ、オレあの人の一番弟子で特別に鍛えられたし」

話す内容なんて取り立ててたいしたこともない、他愛も無いことの繰り返し。
それでもこの何気ない日常がわたしにはとても楽しくて、そしてあとどれくらい許されるのかを知るのが怖くて、さっきからずっと時間の流れには気付かないふりを続けている。
晴れ渡っていた今日の空には雲もなくて、まっすぐ昇ってきた月もひときわ明るかった。

「うん、やっぱり嵐くんは見る目があったんだね。
 これで三年生は、安心して柔道部譲れるよ」

「……。そんな、寂しいこと言わないでよ。まだもうちょっと、一緒にできるじゃん」

少し置いた後、ふいに語尾が弱く、ぬるい風にすらかき消えたような気がしたのは、彼よりも先にそれを寂しいと思ったわたし自身のせいだろうか。


つと途切れた会話に、彼がシャツの上からネクタイを軽く緩めて、背を預けてた金網のフェンスの方へと向き直った。
せっかく部活後にシャワーを浴びたのに、地面の火照りがまだ残っているのか、じっとりと立ち籠める熱気にブラウスが肌に貼り付く感じがする。
今日も熱帯夜になりそうな暑さだった。
それでもまだ、どちらからも帰ろうとは言い出さずこの場に佇んだまま。
フェンスにもたれるわたしと、反対の方向を向いてる彼と視線が合わなくても、
居心地は悪くなかった。そして彼も今、同じ気持ちでいてくれればいいのにとわたしは思う。
せっかく目の前にプールあるんだしいっそ飛び込みてぇよな、そう言ってこっちを向き笑った彼に、前々から思ってた言葉がふと口を突いて出た。

「ニーナはいいなあ」
「え、なにが?」
「だって、勉強も、運動でも、何でも思ったとおり上手にこなせて。友だちも多いし、人気者で、学校でも目立つし。それに美形だし?」
「最後のやつさ、なんか取って付けてねぇ? ……でもまあ、アンタにそう思ってもらえんのって、正直に嬉しいけど」
照れたのを誤魔化すようにわたしから視線を外して笑った顔はすごく素直で、年相応に無邪気でかわいいと思った。
横を向くと流した長い前髪の隙間から、彼にとてもよく似合ってる青いピアスが揺れる。
そんな些細なことにすら、胸の奥がきゅっと痛くなる。

 ニーナは、いいな。すごいな。

改めてそう思ったら、急に寂しくなった。
目の前にいても、二人でずっと喋ってても、まだまだ全然足りない。
どんなに思ってても、気持ちの持って行き場も、上手く伝える術だってわたしは知らない。
もっと彼の近くに行きたい、距離を埋めたいと思うのは、まだそれだけわたしたちの間が離れているから。それは一歳の年の差以上に。

ゆるく吹く風も止んでしまった夏の夜の学校の片隅で、しばらく考えて、わたしは心を決めた。

「――ちょ、アンタ何やってんの!?」
隣で上がった声にはお構いなしに、私は勢いよく目の前の金網のフェンスをよじ登っていく。
身長よりちょっと高いくらいのそれは、乗り越えるのにさほど苦労はしなかった。てっぺんまで到達するとひらりと飛び降りて、思ったよりあっさりとプールの中へ不法侵入することに成功した。

後ろで呼ぶ声に振り向きもせず先へ進むわたしに、慌てたように続いてフェンスをよじ登ってくる音がする。
「なあってば、どしたの、急にこんなとこ入って……」
戸惑いを隠し切れない様子で、ようやくわたしに追いついた声に、
やじろべえのように腕を水平に広げ、プールサイドぎりぎりの水際でぴたりと立ち止まる。

「ねぇニーナ、暑くない?」
「暑いけど」
「涼しくなりたくない?」
「なりたいけど」
「さっき、プールに飛び込みたいって言ってたよね?」
「え、そりゃ言ったけど、ちょ、」
「じゃあ」
止めようとした言葉がわたしに届く前に、プールサイドを蹴って思いっきり高く、
いっぱいに水を湛えたままのプールに向かってジャンプした。

勢いよく水面を割って飛び込んだ派手な音は、同時に耳に流れ込んだ水に掻き消された。
プールの水は覚悟したほどは冷たくなくて、全身が一瞬で生ぬるいような感覚に包まれる。
衝撃に耐え切ると瞑ってた目を開けて浮かび上がり、水面からびしょびしょになった頭をようやく出したところで、何とも説明のつかない顔をしてる彼とまず目が合った。

「…………。えと、涼しく、なった?」
まゆげを思いきり八の字に下げて、笑ってるとも驚いてるとも、もちろん呆れてるとも取れる、
複雑な顔で彼は訊いてきた。
「うん、いっぺんに」
「……だろうね」

そしてわたしはにこっと笑って、おもむろに水面から突き出した両腕を大きく広げてみせる。
「え、マジで?」
「こっち気持ちいいよ」
「…………。」
「飛び込んで」

自分が起こした波がまだ水面をうねらせて、映り込む月を揺らしていた。
後先も考えずに、服のまま勢いで飛び込むなんて、普通に考えれば確かにどうかしている。
本気で呆れられているかもしれない。バカなことをやってるという自覚は十分にある。
もっと言うなら、何でこの方法に走ったのかは自分でもよく分からない。

だけどしいて理由を挙げるなら、追いかけてきて欲しかったんだと思う。
分かった上で振り回してしまう、けどそんなわたしのワガママを、
ほんの少しでいいから叶えて欲しかったんだと思う。
ただもっと、こっちを見てほしかった。誰よりも、今までよりももっと、真剣に。

少しだけ訪れた沈黙の後。 すぐ側で、大きな水音が聞こえて高い飛沫が上がった。
押し寄せた水流に一瞬バランスを崩して転びかけたわたしの腕は、水中で力強く掴まれた。

「――アンタって、ほんとにバカだし」

どこかでは信じていた。
こんなにも無茶で子供じみたことやっても、それでも付き合ってくれる、この人は、

「だけどオレも、同じくらいバカだから」

本当にわたしのことを分かってくれてて、お人よしでノリがよくて潔くて、
そして本当に、優しい人だ。
全力でぶつかっても、逃げずに本気で応えてくれる。
わざと困らせてるワガママなわたしにも、ちゃんと真剣に向き合ってくれる。
だからこそわたしは今こうしてここにいるんだろう。全てを託せるだけの覚悟をもって。

八の字まゆげはもう元に戻っていた。アンタって子は、ホントにもうってこぼしながら、その目はどこか楽しんでいるようにも見えた。
せっかくセットしてた自慢の髪型もすっかりずぶ濡れで、毛先からは次々に雫が垂れている。

「びっしょびしょだけど、でもすごく似合ってるよ?その髪型」

……こっちとしては、むしろ褒めたつもりだったのだけど。彼は油断してたわたしに向かって間髪入れず、思いっきり水をかけてきた。
わたしも両方の手のひらで水をすくい、全力でやり返す。水が目に入って痛い。
風もちっとも涼しくない。生ぬるいプールの中で、気が付いたら二人とも思いっきり笑っていた。


「……ねぇ、飛び込んだはいいけどさ。今日どうすんの、帰り」
「服が乾くまで待つよ」
「乾くまでって。それじゃ風邪引いちゃうんじゃね?」
「引いてもいいよ」
「……そっか。じゃあ、付き合ってあげる。服ちゃんと乾くまで。
 あとついでに風邪引くとこまで、一緒に」

本気なのかどうなのか、いたずらっこみたいな目をして、彼は笑う。
だからこんなにもわたしは、この人がいとおしくてたまらないのだろう。
ふざけてるかと思えば年下のくせにたまに大人びてて、どっちが先輩か分からない時があったり、おどけた目がふと真剣になる瞬間とか、
笑った顔も、照れた顔も、情けない顔もこうやってじっとわたしの事を見つめる時の顔も。
何もかも全部をもっと知りたいと思う。たとえ、
見つめられるたびになぜか泣きそうになったとしても。

「ねえニーナ」
「ん?なに?」
「……わたしね、ニーナに会えてよかったよ」

今までに何度となく呼んだ名前を、今日一番心を込めて呼びかけてみる。

「……オレも。会えてよかった」

カワイイとか綺麗だなんて言われるよりも、それは嬉しくて幸せな言葉だったかもしれない。
不意に真面目な顔になった彼が手を伸ばして、指先が私の濡れた髪をくぐりそっと頬に触れた。
とても明るい月が出ている夜だった。揺らいだままの水面にその光が丸く、
くっきりと映り込んでいた。



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 *素敵な挿絵をサヤたんから頂きましたよ!
  かわいいニナバンを本当にありがとうね〜!!+.゚(*´∀`)゚+.゚










(2011.7.19)