「ヒースロー行きBA006便をご利用のお客様へ、塔乗の最終のご案内をいたします──」

呼び出しのアナウンスを聞き流して、行儀よく順番を待つ乗客の列の方をちらと見遣ると、待合ロビーの面のひとつを成すガラスの向こうで、ジェット機の背がきつい日差しを照り返している。
その昔、今のように飛行機なんてなかった時代には、出航の日の天気はその旅自体を占うほどとても重要なものだったというのも頷けるが、文明が進んでよほどの悪天候でもない限り、いつでも思い通り出発できるようになった今でも、旅立ちというものはやはり突き抜ける青空の下の方が気持ちがいい。
ただし、それがこんな焼け付くような夏真っ盛りでなければ、の話だが。

 ……ご利用のお客様へ、塔乗の最終のご案内をいたします。
 まもなくご搭乗の方は──

ガラス越しの空の青にそんなことを考えているうちに、何度目かの最終呼び出しも流れ終わり、列に並んでいた周りの乗客もすっかりいなくなっていることに気付いて、ようやく重たい腰を上げた。

リーダーでチケットを読み込む音と共に、俺は先へと進む。
日本の景色もこれで見納め、しばらくの間は戻るつもりもない、その覚悟と共に。

席に着いて離陸までの間、手持ち無沙汰に取り出してめくっていたものの、
機内誌の内容は頭には入ってこない。時間を潰すのも潔く諦めると、
隣の小さな窓越しに、まぶしい光に溢れる外の様子へと目を向ける。
夏草が生い茂る地面の向こうに見えるのは、この空港へと続くモノレールの線路だろうか。
弧を描いて浮かぶ架橋が遠く見える風景を、容赦ない日差しに滑走路から立ち昇る陽炎が
こまかい波のように揺らめかせている。

こんな暑い夏ともしばらくはおさらばだ。あっちはあっちでこれから夏本番を迎えるわけだけど、
湿気が多くて陽が沈んでもまだ暑い日本のそれとは趣きがずいぶん違う。
幼い頃から幾度となく過ごしたヨーロッパの夏なら迎えるのにもそれほどまでの覚悟はいらない。
しばらくぶりに出逢う向こうの景色は今どうなっているのだろう。子供の頃の俺をさんざん迷わせたあのイングリッシュガーデンも、きっと迷宮の難易度をますます上げているに違いない。
かつて世話になった人たちの懐かしい顔を思い浮かべる。入れ違いに置き去りにするたくさんのものを頭の中から払拭するように。


滑走路の脇に茂る夏草が、離陸を待つ機体の先で風にそよいでいた。
こんなものにわざわざ目を向けたことがあっただろうかと考えて、
そしてふと、昔のことを思い出す。一見ありきたりでつまらないと思えるものでも、よく見ると
ひとつひとつが違っていてユニークで興味深いのだと、
そんなことに気付かせてくれたのは。普通なら見過ごしてしまう、無為な何でもない毎日にも、
目新しさや面白味や、これまで知らずに素通りしてきた当たり前の幸せがあるんだということに
気付かせてくれた後輩は。

 ──せーんぱい!

いつもそう俺のことを呼んでいた声はもう聞こえない。


せんぱいなんて分からずやです!

そんな分からずやの常套句のような台詞を投げつけて彼女が消えたのは、
俺が渡欧を告げた何日か前のことだった。
急だとはいえ行くことは決まっていたようなもので、心の底から一点の曇りもなくとは言わないまでも、俺の決意は全面的に応援してくれるものだと思っていた。
最後に俺を呼んだ声は、断ち切れない後味の悪さと共に今も耳に残る。
彼女は背を向ける瞬間、子供みたいに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 ──どうしろっていうんだ。

どうにもならない葛藤を経て、苦いだけのため息をあれから幾つついただろう。
離れていてもそれは問題じゃない、同じ道をいつも一緒に歩むことはできなくても、
寄り添うことはできると思っていたのは、俺の独りよがりだったのか。

こんなにも旅立ちの日にふさわしい、突き抜ける青空の下でわざわざそんなことを
思い出してしまったのは、何ひとつ特別なこともない、名前もないようなただの夏草が、
風に吹かれてなびく様が思いがけず、はっとするほど美しかったからかもしれない。
やけに感傷的になっているのは、残していくものの大きさを俺も知っているからだ。


乗客と貨物を積み込み、全ての離陸準備を終えて、機体はゆるゆると滑走路を動き出す。
日本の見納めにもう一度、窓の外へと向けた俺の視界の端に、その時長く白い帯のようなものが映り込んだ。
見間違いかと思い、額が窓にくっつくくらい近付いて再度よく目を凝らしてみる。
機体の角度が変わったことで見えてきた、おそらく展望デッキらしきターミナルの上階で、
フロアの窓際を端から端まで覆うような白い横断幕が、光を受けて反射するガラスの内側に広げられていた。


……あいつ、ばかじゃないか。もし俺が窓の外を見なかったら、いやそれ以前に俺が窓側の席でなかったら、そもそも飛行機の角度がちょっとでもずれてたら。

…………。

いや、それでもあいつはやったんだろう。たとえそれに俺が気付かなかったとしても。
目を逸らしたのは、照り返す展望デッキのガラスがまぶしかったせいだけじゃない。
もし俺が、あいつの覚悟に応えられるものがあるとしたら、それは。

長い助走を終えた飛行機は飛び立つ向きを定めると、滑走路にエンジン音を響かせて、
浮かび上がるその瞬間に備えどんどんと速度を上げていく。
大きく変わっていく生活のその前に。向こうについたら、何よりも先に電話をしよう。
それは、これからは迷わない、チャンスを失うことはもうしないと決めた、自分自身の意志で。


 おまえ、横断幕のBon voyageの綴り間違ってたぞ。

 ……それから、大学の夏休みの予定を教えろ。フライトチケットを送るから住所もだ。







(2011.7.5)