黒板にチョークでカツカツと元素記号が刻まれていく、無機質な音だけが響く。

昼下がりの教室、埋め合わせの退屈な授業に気乗りしないまま、
その単調な音を頭上でやり過ごすように机に突っ伏した。
不意に耳を掠めた風の音に呼ばれ、開け放たれた窓の向こうへと視線を移す。
ガランとした校庭の先、広がる青空の下、伸びた建物の隙間を縫って、はるか向こうに
小さく固まって見える、森林公園の薄い桜色。
だいぶ春めいた陽射しがこぼれる教室に吹き込んでくる、少し柔らかみを帯びた風は
街を吹き渡り、カーテンを揺らし、この教室を巡ってほんの微かだけど、
桜の花の匂いを届けてくれるように思えた。

桜並木の方はきっと、今が満開なんだろう。
今日なんて、お花見にもってこいのいい天気だし。

長い冬を越えて少しずつ芽吹き始めて、待ちわびたように新たなものが生まれてるのが分かる。
今までだったら、すごく楽しみにしてたはずのこの季節を抱え込むように
視線を戻すと、突っ伏した腕に再び顔を埋めた。
ひとりで受け入れるにはまだ、今の春の陽射しはまぶしすぎて。


【桜】

「新名、今日は帰りにゲーセン寄って行かねえ?ほら、今週から新しいバージョン出てるだろ?」
終礼のチャイムが鳴り終わると同時に、一年の時から同じクラスの悪友が肩に手を乗せて声を掛けてきた。

「あー……っと。……やっぱ、今日はパス。ゴメン。」
「ええー。……まあ、無理にとは言わないけど。 おまえさ、最近付き合い悪いぜ?」
手を置かれたまま、横から顔を覗き込まれて、イヤなんでもねぇし、と普段どおりに明るく笑って見せる。
けど、ずっと一緒に居たこいつには、取り繕ってきたこともどうやら全部お見通しらしかった。
「……なあ、そろそろ元気出せって。気持ちは分かるけどさ、落ち込んでたって帰ってくるわけじゃないし、ほら来月になったらカワイイ新入生の女の子とかも入ってくるかもよ?」
「オレはもうナンパからは卒業したの! てかおまえと一緒にすんなって」
突っ込みをかわし、へえーじゃあどんなカワイイ子いても絶対手を出すなよーとかって、捨て台詞残して駆けていくダチの背中を笑って見送る。
こんな何気ない会話振って気を遣ってくれる、あいつや周りの友達のありがたみが、妙に心に痛かった。
言われるまでもなく、オレ自身が誰よりも分かっていた。
あの日から。あの人たちがいなくなったあの日から、失ったものはたったひとつなのに、
まるでオレの周りの何もかもが変わってしまったように。
主を失い、今はただ静寂ばかりが支配するがらんとした3年生の教室の前に立つ。

こないだまで賑わってた、そしてオレが足を運べばいつも当たり前みたいに彼らがいた場所は、
卒業の日を境にその日常の余熱を消した後も、ここだけ時の流れに取り残されたように
誰にも触れられることなくただ静かに佇んでいた。
ぽっかりと空いた穴を埋めるものがなくても、それでも来月になればここはオレたちの場所になり、
新入生も入ってきて、きっとまた何事もないように日々は過ぎ、季節は巡りゆく。
やがて誰もがあの人たちのことなんて忘れて。過ぎ去る時間は悲しみもさびしさも
全てを上書きしてまるで、思い出なんて初めからなかったように。

一歩ごとに、視界が薄桃色に染まる。木々の間を吹きぬける柔らかい春の風が心地よく
頬をくすぐっていく。
誘いを断った帰り道、ふと思い立って歩き慣れたいつものルートを逸れ、別の小径に入った。
教室の窓から遠く見えたあの桜がどうしても見たくなって、帰りがけひとり立ち寄った公園通りは
思ったとおりに見ごろを迎え、満開の桜で埋め尽くされた並木道は息を飲むほどの風景で、訪れる全ての人たちを魅了していた。

そういえば去年ここで彼女と3度目の花見をした時、さくらの歌を歌ってくれたっけ。
大きな声で、なんか子供みたいに、でもすごく嬉しそうに。
それを見てて本当に嬉しかったのはオレの方だったんだって、今頃改めて気付いても遅いのに。

強く風が吹いた。いっせいに舞い上がった花びらが吹雪のように、この風景ごとオレを包み込む。
追いかけっこを繰り返して、時には張り合って、でも心から信頼して。
そんな嵐さんとオレの側で、いつも彼女は笑ってた。
3人で過ごした時間となんでもない会話。
たくさんの甘くて切ない思い出の中で、でもいつも優しく触れてくれた彼女の温もり。
柔道とか青春とか、汗臭いだけだと思ってたオレに嵐さんが教えてくれたこと。
ただ、今までの日々が眩しすぎたんだと思う。
今までのオレは、その毎日が宝物で、それだけでいいと思ってた。
いずれ来る別れには気付かないふりをして。
仰ぐと一面ピンク色で咲き誇る枝の隙間にかろうじて覗く狭い青空が見えた。
風が吹くたびに揺れる枝の先から甘い香りが放たれ、舞い散った小さな花びらは
どこまでも遠い空へと飛ばされていく。
この桜は、いつからここに立っているんだろう。どれほどのものを見守ってきたんだろう。
果てしなく長い間、たくさんの出来事を、移り変わる季節の中でただ黙って見続けてきたこの木にとっては、オレの寂しさなんて取るに足らないちっぽけなものなんだと思う。けど、そうだとしても、
二人の抜けた穴を埋めるすべを持たないままひとり取り残されたオレにとっては、明日を見失ったのと同じだった。
今までと同じ日常なんてもう、来ないんだと思った。


ピンク色が少しずつ薄く淡く揺らめく。いたたまれなくなる前に踵を返そうとしたその時、
誰かに呼ばれたような気がした。
……いや、気のせいじゃない。それははっきりと今、背後からオレの名を呼んだ。
だって耳を澄ましたりしなくても分かる。聞き慣れた、あのなじみの声は。

きっと、オレと同じように。彼らもまた、今日、どこか遠くから目にした
このキレイな桜の色に呼ばれて来たのかもしんない。
もしかしたら、昔一緒に見たことを思い出して、懐かしんでくれたのかもしんない。
……結局、この人たちには何もかもがお見通しだったりするのかもしんない。

「なんだ新名、元気ねーな。新入生の時みたいに、もう一度走り込みするか?」
「ニーナ、これだから年下はヤダヤダってスネたりとかしてない?」

ちょっと茶化した変わらない口調で、いつも通りに、その声の主たちはオレを呼ぶ。

「走り込みはもうケッコーです。………アンタらは、ホント、なーんにも変わってねぇんだから」

分かってる、全部分かってるから。振り向かなくたって、ただその言葉だけで。
アンタらは、卒業したって、ほんとはずっと側にいたってことが。
これからも、オレを見てくれてるってことが。

狭く切り取られた青空が急に開けるように。
薄い花びらが降り注ぐ桜の木の下で、ほんの少しだけ久しぶりに会えた二人が、
こっちを見て笑った。



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震災後、止まっていたけれど
最初に書くならこれにしようと決めていました







(2011.4.1)