単調に時を刻む秒針の音だけが静かな部屋の中で響いていた。

特にこだわりを持って棚に並べた60年代のピクチャーレコード。
そこにひとすじの朱色の線を落とすように、窓から差し込む暮れかけの太陽の光。
黙りこくったまま、俺の隣に座るオマエのうつむいた視線。
その指に小さく光る、−−ルカから贈られた細い指輪。

印象に残る風景ってやつがある。
月明かりの下で蹴り散らかしたサクラソウの白く浮かぶ花びらや、
そしてあの日部屋の隅っこで泣いてたルカの幼い、小さな背中も。

今こうして俺の目に映っている風景も、
きっとそんなふうに、いつまでもこの胸に残るんだろうとぼんやり考えた。


「ルカのことは私に任せて」

暮れる帰り道、あいつを探してた俺にオマエはそう告げた。
その意味にあの時気付いてれば、こんなふうに
いつまでも長引かせることはなかったと、自分の愚かさ加減を自嘲気味に振り返る。

ルカと争ってるところをオマエに見られたあの日から
俺らの間にどうしょうもなく居心地の悪い空気が漂う日々にも正直疲れていた。

こないだまで三人で仲良く出掛けたり
まるでオマエも含めた兄妹のようにじゃれあったりしてた日々が
ずいぶん遠い昔のことのように思える。

本当は分かってたはずだった。
俺がこいつのことを見てるのと同じ頃から、こいつはずっとルカのことを見ていたのを。
それでもオマエと過ごす日々は俺にとっても大切だった。
あの日出会った事で変われたのは、俺も同じだ。

でも手に入れようと我を通すほど、大切な奴らをかえって傷つけた。
意地を張るのはもうやめだ。
ルカにはこいつが必要だ。そしてこいつ自身も、それを望んでる。
今日を最後に、終わりにする。そう決めた。
それが一番、全てがまるく収まる方法だと、何度も自分に言い聞かせて。


ろくに会話も無いまま、ずいぶん長い沈黙が続いた。
これほど一緒にいる時の沈黙が息苦しいと感じたことはなかった。
・・・それはきっと、オマエも同じだったんだろう。

「そろそろ、帰るね」

目を伏せて一語ずつ、噛み締めるように発した後、
重い空気に堪えかねたように
並んで腰掛けていたソファからオマエが静かに立ち上がる。

この瞬間が来るのは分かってた。
もうこれで終わりにする、たった今、自分でそう決めたはずだ。

それなのにぎりぎりのところで微かに繋ぎ留めていた何かが切れた。
ひたすら押し込めてきた感情が心をひっくり返したように溢れ出す。
瞬間、背を向けたあいつに後ろから腕を回し、か細い体を抱きしめていた。

オマエが小さく震えたような気がする。
力の加減もせず後ろから抱き寄せ、柔らかな髪に沈めるように顔を埋める。

求め続けてきた懐かしくてどこか安心するオマエの匂いに、
さっき誓ったばかりの決意もあっさりと崩れ落ちていく。
抱きしめると見た目以上に細く感じる体は、いとも簡単に折れそうに思えた。

何も言葉にならない。息もできないまま、
叶わないと分かっていても願わずにはいられなかった。

全てを忘れて今この手で壊してしまえるなら。
何にも囚われずこのまま、オマエを俺のものにできたなら。

もし一番初めからやり直せるんなら、俺は、
俺たちは、
変わってたんだろうか。
この先の未来も。

どんなに心に問い掛けてみても答えは出てこない。

おぼろげに浮かぶ過ぎ去った日の幼い記憶が今
ぐにゃりと曲がるように歪み、遠く輪郭がぼやけると
幻のように消えていく。

でも今この腕の中で確かに感じてる、柔らかく心を溶かすような温もりだけは嘘にしたくない。
頭では分かっているのに、自分から回した腕を離せなかった。
−−失うのが怖いと、初めて思ったのかもしれない。

外はすっかり日暮れ、いつの間にか下りた夜のとばりが無言のままの俺たちを包む。

あれから、どれくらい経ったのか。

とても優しい仕草でそっと白い手が俺に触れ、絡ませた腕がゆっくりとほどかれる。
愛おしさをまとった温もりが今、静かに俺の腕から離れていく。

そして少しだけこっちを振り返った瞳を見た時気付く。

今、誰より一番辛かったのは、オマエの方だったな。

俺が奪おうとすればするほど、気持ちを押し付けるほど、
オマエを追い詰め苦しめていることは、誰より一番よく分かってたはずなのに。

「悪かった。・・・行ってこい、ルカのところに」

黙ったまま、こぼれそうなほど瞳に涙をいっぱいに溜め俺を見つめる
オマエの顔を、もうこれ以上見ていることができなかった。

「・・・馬鹿、泣くな。オマエが気にすることなんかねぇ。これで、よかったんだよ」

今ならルカもいるだろう。送ってやれるはずだ。
もう二度と、俺がその役目になることはないと、改めて自分に言い聞かせた。

さっきまであいつが座ってたソファに腰掛けたまま、
静かに階下に下りていく背中を、遠くを見るような眼差しで見送る。

薄暗い月明かりに照らされた部屋で、俺の中に残るたくさんの笑顔と
腕に残るほのかな温もりを、一人ぼんやりと思い返した。







(2010.10.17)