【夏の淵の丘で】


 家と水田の間を抜けて遠くまで延びる道を渡り、カタンカタンと小刻みに音を立てて、黄色い車両の電車が走る。
 混む時間帯を過ぎた平日の午前中、郊外を走る短い列車には乗客の姿もそれほど多くはない。
 少女は古ぼけて色褪せた手すりに腕を置いて、車窓に目を向けた。初めて来る場所だけれど、窓から見えるのは、どこかで見たことがあるような懐かしくて穏やかな風景だ。
 強まってきた初夏の日差しが、通り過ぎるたびに遠景の山や新緑の木々を輝かせている。光加減で、目に映る緑の鮮やかさはこんなにも違うのだ。だから今日はいいお天気になってよかったと少女は思った。
 ことん、とその時肩にもたれかかる重みを感じて、見ると隣で魁斗が少女の肩に頭を預けるようにして眠っている。多忙な日々に加えて、さっきから電車の規則正しい揺れがちょうどゆりかごのようで、うたた寝をしてしまったのだろう。
 おつかれさま、と寝顔に呟こうとして覗き込むと、彼の髪が頬にかかって少しくすぐったい。四人がけのボックス席には、他の乗客の目も届かない。
 こんなふうに彼の寝顔を見たのは、もしかしたらあの時以来だろうか。まだ春先の、出会ったばかりの頃だ。お店で彼がうたた寝をしていて、寝起きでぼんやりしたまま自分の指とスプーンを間違えられて。
 寝顔はあの時とあんまり変わらないな、と少女はその日のことを思い返してくすりと笑う。二人の一番初めの思い出のまま、まだあどけなさが残る寝顔だ。
 いつもこんなふうにいてくれたらと少女は思う。わたしにもずっとそのまま、自然体でいてくれたらいいのに。
 雨の降り出したあの夜に、彼が店の前から立ち去った時にも。きっと何かあったのだろう、でもあの時自分は力になれなかった。
 暗い場所で立ちすくんでいた彼にもっと何か違う言葉をかけていたら、気持ちを少し和らげることができていたかもしれない、せめて無理しないでと、伝えればよかったのに。雨の中で小さくなる後ろ姿を自分は、呼び止めることもできなかった。
 強がって、弱さを人に見せようとしないで、何か悩みがあってもひとりで抱え込んで。せめて自分にはそういう部分も見せてくれたらいいのにと少女は思う。魁斗にとって自分はなんなのだろうと考える。過ごしてきた時間も、繋がりも、わたしはまだ彼には、足りないんだろうか。
 そんな感傷がふとよぎりかけたものの、前向きになろうと少女は思い直す。あの夜はあの後すぐに、魁斗からメールが届いた。そうして呼び出されて今、二人の休日を合わせて、こうして一緒に出かけているのだ。
 結局何があったのか、今からどこへ向かうのか、具体的には何も知らされていないけれど、ふと気が向いただけの、あてどもない旅のようにも思えた。それなら別にそれでも良かった。
 どこかへ向かおうとする魁斗の、近くにいられるのなら今は、それだけでも。
 やがて電車は小さな駅に着く。気持ち良く眠っている魁斗を起こすのは忍びなかったが、さすがに必要に迫られて少女は肩にもたれていたその頬を軽くつつく。少女はどこで降りるのかも知らないのだ。
 魁斗さん、と小さく何度か呼びかけると、ふぁ、と気の抜けた声を上げて気がついた魁斗は、慌てて預けていた体を起こした。
「あっ……俺、寝てた? ……てか、もしかしてずっと頭もたれて……ごめん」
「大丈夫、重くなかったよ。それより、ここでまだ降りなくていいの? 今、駅みたいだけど」
 えっ、と声を出して魁斗が慌てて顔を窓に近付けて駅名を確認する。
「良かった、まだだ。もし寝過ごしてたらシャレになんねぇし」そう言って、安心したように再び腰を下ろした。
「ふふ、よく眠ってたね? あんまり気持ち良さそうだったから、起こすのかわいそうだったんだけど」
「バッ……、寝顔とかあんまり、じろじろ見んなって」
 目を伏せて顔を逸らしたが、髪の隙間から覗く頬がもう赤くなっている。それがおかしくて、少女はくすくすと笑った。
「ねぇ、これからどこに向かうの?」
「それは、まぁ……今は、まだヒミツ。けど、すぐ分かるから。もうじき着くし」
 そう言って、どこか懐かしそうな顔つきで窓の外に視線を移した魁斗に合わせるように、少女もまた車窓に目を向ける。

 その言葉通り、それから幾つか過ぎたところの駅で二人は電車を降りた。それほど大きな駅ではないが、駅名に少女は聞き覚えがある気がした。
 うちの、地元。改札をくぐった後、思い出すように辺りを見渡して、そう魁斗は言った。
 南側の出口を出て、人通りの多くない細い道を選んで線路沿いに歩き出す。駅前にはそれなりに大型の商店や飲食店も集まっていたが、繁華街がある方を背にして進んでいくと、住宅街の中を抜け、短い橋の架かった川を渡り、辺りはだんだんと緑豊かでのどかな風景に変わってきた。民家もたくさんあるが、一本その通りを外れれば車がようやくすれ違える幅の道路の側に、ところどころ田んぼも広がっている。
 道の脇には人によって手入れされたものではない、自然のままの草花が生い茂っている。辺りには陽の光を遮蔽するような高い建物はなく、車の往来もほとんどない。道路に沿って狭く浅い溝が走り、それもほとんど水は枯れて流れておらず、苔生している。
 初夏の匂いの混じったぬるい風が肩を追い越すように吹き抜けていった。
 まだセミが鳴き始める前の季節は、風の音が静かで、まとわりつく熱を帯びて、照りつけるような暑さもすぐそこに近付いているのを感じさせる。夏がこれから始まっていくのだ。駅からはもうずいぶんと離れてしまった。いつの間にか田んぼに囲まれたこの景色になってから、どれくらい歩いてきただろうか。
 ただまっすぐに細い道が続いて、その脇に水田が広がる素朴な風景のずっと向こうで、何かが光った気がした。
 目を凝らしてみると、彼方にこの辺りの景色とは違った高い建物のシルエットと、その元に大きな幹線道路でも走っているようで、遠すぎてここからではよく見えなかったが、おそらく大きな車が横切っていくたびに、時々それが強い陽の光を反射し煌いて見えるのだ。
 黙って傍を歩いていた魁斗が、思い出したように足を早め、やがて立ち止まり、道の先で少女を待つ。
「魁斗さん」少女は振り返ったその姿に後ろから呼びかけた。
「聞いてもいい? どうして、ここに来たの?」
 追いついたその少女に、魁斗はこう答えた。
「宝物を、見つけに来たんだ」と。


    
 幼い頃、よくこの道で遊んだ。道沿いには空き地や休耕田もあったから、草笛を作ったり、虫を捕まえたり、四つ葉を探したりもした。
 ここを通る時に、魁斗はいつも不思議だった。どこまでも続く道の先に、なにかがきらきらと光って見えて。
 ずっと向こうまで行けば、それが分かるかもしれない。そう考えて、その場所へ向かおうとするのだけれど、幼い足にはそこは遠すぎて、それに家から遠くへ離れていくほど、心細さが募って、帰れなくなるような気がして、そうして怖くなり、いつも途中で引き返してしまうのだ。
 それでも何度も、その場所へ向かおうとした。少しずつ近付いてくる新しい景色は魁斗の知らないもので、そこまで辿り着けば大きくなれるような気がした。
 いま歩いているこの道もとても長いけれど、この先もっと向こうにも何かが続いている。道の終わりまで行けばきっとその先が見える。自分の知っている外側にある、広くて大きな世界。けれどやっぱり、いつもそこに辿り着く前に疲れ果てて、怖くなって、足を止めてしまうのだ。
 いつしか、そこは自分の目指すゴールになった。
 遠くてまだ見たことの無い、大きな世界を自分の目で確かめてみたいと思うようになった。
 風が首筋をすり抜けるように追い越して、連れてきた夏のにおいに気がついて魁斗は我に返る。
 あの日のように、遠い道の先は時たま光を反射してきらきらと光っていた。 
 今はもう、誰も通らない道を振り返る。そこには知らない世界に憧れる、幼い頃の自分がいた。

 宝物を見つけにきた。そう言ってから、追いついた少女に、でもどこか自分にも言い聞かせるように、魁斗はふと尋ねた。
「お前は、考えたことある? 自分にはどんな未来が待ってるのか。自分は、どんな大人になるんだろうって」
 その言葉に考え込む少女に、道の向こうを眺めて魁斗は言った。
「……俺、小さい頃から夢があってさ。歌を歌って、それをみんなに聴いてもらって。大きくなったらまだ自分の知らない、広い世界へ出て行って、そうして自分の力で夢を掴むんだって。ずっと、ここで過ごしてた時から憧れてた」
 黙って聞いていた少女が、魁斗を見上げて尋ねた。
「怖くはなかった? 新しい世界に踏み出すこと」
「うん。……あ、本当に小さい時には、ちょっと怖かったこともあったけど。それでも、向こうには何が見えるんだろうって、楽しみでしょうがなかった」
「そっか。……なんかいいね、そういうの」
 まぶしげに目を細めて笑った少女に魁斗は尋ねる。
「お前は、そういうことある? ……お前の夢って、何?」
「夢っていえるのかどうか、まだ分からないけど」少し考えてから、少女は続けた。
「自分が作ったものをお客さんが幸せそうに食べてくれてる時は、わたしも誰かの役に立てたのかなあって思えて。そういうひとつひとつはやっぱりうれしい。出してるのは料理だけど、料理を通じて、その人にとっての幸せな時間を作れたらいいのになって、いつも思ってて」
 後ろで手を組んで、少女は魁斗の数歩先を歩き出す。
「それに魁斗さんは歌を通じて誰かを元気にしたり、憧れや目標になったり、時にはもっと大きな存在に、救いになったりもしてる。……そんなふうに、わたしも誰かの支えになれたらいいのにと思う、いつか」
 俺は。それを聞いて、魁斗は足を止めた。「今の俺は、聴いてくれる人に、ちゃんと何かを与えられてんのかな」
 顔を伏せてぽつりと呟く。「それに、お前はもう支えになれてるよ。少なくとも、俺にとっては……」
 少し先を歩く少女に、その言葉は届かなかったのだろう。その方が良かった、と魁斗はほっとする。
 それでも、と魁斗はもう一度前を向いて思った。今だって、この道の上に立つと、改めて強く感じるのだ。
 ついこないだの出来事のように、はっきりと蘇ってくるあの頃の気持ちを。やっぱり自分は歌うことが好きで、ステージに立ちたくて、誰かに歌を聴いてもらいたい。
 自分がいま立っている華やかでまぶしいステージだって、元を辿ればこの道と繋がっている。先にあるものが見たくて、広い世界を目指して歩いてきた道。
 今日と同じように、吹き渡る風が緑を揺らすあの日の風景の中には、ただ歌を歌いたくて、まっすぐ未来に憧れている少年の自分がいた。


…………………