【ナイトランズカルーセル】


「幽霊バス?」

 うん、と二個目のショートケーキをおもむろに目の前の取り皿に移しながら、音羽が頷いた。
「出るんだって。はばたき市に」
 まさか、また小さいオジサン的なあれじゃないの? いつものようにそう魁斗は訝しんだが、
「けど、見た人が何人もいるんだって。真夜中、最終発車時刻を過ぎた後にやって来るっていうバス。本当なら走るはずのない時間に、どこを走っているのかも誰にも分からなくて。運転席のところも人がいるのかいないのか、よく見えないんだって」
 慣れた手つきで側面の透明なフィルムを丁寧に巻き取りながら音羽は続けた。
「でも名前は物騒だけど、別に縁起が悪いものじゃなくて。むしろ親切なバスらしいよ? それに乗ることができたら、会いたい人のところに連れていってくれるんだって。どんなバスなのか、僕も見つけたらちょっと乗ってみたい」
 平然とそう言うと、満足げにケーキをひとくち頬張った後で、音羽が付け加えた。
「スタッフさんにこの話を聞いた時、隊長も一緒に居たんだけどね。はは、まさか、ってその時は笑ってたけど、後でバスの時刻表、熱心に調べてた」
 その様子は、なんか、目に浮かぶけど。そう言って軽い笑い話で流したのは覚えている。あの時、そんなふうに冗談交じりに楽屋で話題に出ただけの、ただの噂だと思っていた。きっとよくある都市伝説的なことだろうと。
 それでも夜遅い奇妙な時間帯のバスに乗ってしまった今は、もしかしたらこれがそうなのではないかと思え始めた。飛び乗る前に、時刻表に載っていたのか、せめてバス停で確認できてたらよかったのにと魁斗は少し悔やんだ。
 路面を弾く音だけが聞こえていた車内で急に、次のバス停で停止することを知らせるブザーが鳴り響く。びくりとしたが、前に乗っている客の誰かが降りるために押したようだ。窓の外は相変わらず暗くて、時間的に言ってもこれから客がもっと増えてゆきそうには思えない。現に、自分の後は誰も乗り込んできていない。
 聞いた時の話だと、幽霊バスといっても危ないものではなさそうだけれど。それでも、このままどこに行くのか、ちゃんと帰り着けるのかどうか、魁斗は少し不安になった。
 まさかそんなわけないか。そう思い直し、かぶりを振る。行き先には確かにはばたき駅も入っていた。気持ちを落ち着けるように息を吐くと、魁斗は再び窓の外に目を向けた。

 バス停で客がひとり降りていくと、また何事も無いようにバスは走り出す。人が減ったからか、一段と冷房が効いた気がする。バイパスが平行して走っているがこの辺りには工場以外に建物もあまりなく、人気のない寂しげな景色だ。と、バスはトンネルに入ったようだった。途端に黒く塗り潰された車窓には薄明かりに照らされて、自分の顔が映り込む。
『最近いい表情になってきたね』
 あいつの店の窓際の席。やっぱり同じように夜、ガラス越しに映り込んだ姿を見た彼女に、そう言われたことがある。わりと最近の話だ。
「……え、まじで? でも急になんか、撮影中のカメラマンみたいだけど」
 コップに水を注ぎ足しながら、それを聞いて彼女は苦笑した。
「でも、本当にそう思うよ。雑誌に写った写真とか、お芝居の時の表情とかも」
 彼女にそう言ってもらえるのは、素直に嬉しかった。アイドルというのは、アイドルゆえに、いろんな方面の仕事をこなさなければならない。歌やダンスのことなら少しずつ慣れてきた部分もあったが、演技とか、写真撮影に関してはまだまだ経験途上で、どんな表情を見せればいいのか、どんな仕草が最適なのか、撮影が終わってしまうまで迷うこともあった。本業モデルにはなれないな、とその時魁斗はよく思った。
「デビューしたの、一年ちょっと前だよね。その時と比べたら魁斗さん、ずいぶん印象が違うなって思うよ。あの頃はほら、今みたいにみんなの前で笑うことも少なくて。一番最初に、お店に来てくれた時のことが、もうすごく懐かしい」
 もちろん、その頃がダメってことじゃないけど、と彼女は茶化したみたいにくすくす笑う。
「ハハッ、どういう意味だよそれ。俺、そんなに違うのかな。表情とか、そんなふうに改めて言われたことなかったから」
「……だってわたしは、デビューした時から、ずっと見てきたから」
 え、と聞き返そうとした時、彼女は他のお客に呼ばれてすぐにテーブルを離れてしまった。結局、その話はそれきりで終わりになったのだけれど。
 ごうっと風が通り過ぎる音と共にバスがトンネルを抜けた。向こうに港湾のような開けた場所が見えてくる。まだ海沿いの道を走っているようだ。窓からずっと見えている月の位置からすると、方向としては確かにはばたき市の方に向かっている。
 少しほっとして、そしてまた物思いに耽ろうとした時に、再びバスの停止を知らせるブザーが一斉に光った。自分以外に乗っていたもう一人の客も降りるらしい。本当に、運転手と二人きりになってしまうようだ。
 港の近くでバスは止まり、扉が開く。降りていく客と入れ替わりに、生ぬるく淀んだ外の空気が少しだけ流れ込んできたが、すぐに冷えた空気に体の周りを包まれた。
 窓の向こうにはぽっかりと浮かんだ上弦の月以外、相変わらず黒々とした闇が広がっている。

 幽霊バス。
 正体不明で闇夜を走るそれは、会いたいと思う人のところに連れていってくれるという。
 本当にあるのだとしたら、もしこれがそうなのだとしたら、今夜自分を導いてくれるのだろうか。


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