【A modern fairy tale】  霧島×主人公


 ぽつり、と鼻先に何かが当たり、暗くなったことに気がついた時にはあっという間に辺りは本降りになっていた。目にまぶしいほどの緑が広がっていた芝生広場も、大粒の雨が降り始めると一面またたく間にくすんだ色に塗り替えられていく。
 建物はおろか、屋根らしきものも見当たらないこの森林公園の真ん中では、一時的に雨を凌ぐ場所を探すのも難しい。霧島は彼女をかばって急ぎ足に、雨よけの屋根の下にベンチがいくつか並んでいる場所へとようやく辿り着いた。今は少し息をついて、足元のコンクリートに打ち付ける雨粒を見ている。
 頭上にせり出した平たい屋根のせいで雲の様子は分からない。おそらく通り雨だろうが、辺りは薄暗く、雨脚はかなり強い。夏の夕方というのはかくも急に、天候が不安定になりがちなものだ。傘も持っていない今の状況では、この激しい雨が通り過ぎるまで、ここでただ待つしかないだろう。

「あの……これ、使って」
 美奈子はカバンからハンカチを取り出すと、そう言って霧島に差し出した。
「司さん、ずいぶん濡れてるから。早く拭かないと、体が冷えちゃう」
「ああ、すまない。ありがとう」
 それを受け取ると、首筋や、視界をぼやかせていた眼鏡に落ちた水滴を拭う。ふうっと息をついて、彼女はひさしから流れ落ちる雨の向こうを眺めた。
「さっきまであんなに晴れてたのに、すごい雨。早く、止むといいね」
「……ああ、そうだな」
 こうして時間を取り、二人きりでどこかに出かけられたのは久しぶりのことだ。空いた時間を見つけては霧島もまめに店には訪れているし、美奈子の方も配達でよく事務所にはやって来るから、偶然も含め、会っている回数という意味では少なくはないのかもしれないが。それでも、デートとはだいぶ意味が違うものだ。だからこそ、無理をしてしまった。こうなることを分かっていたのに。
 当然だが、辺りに自分たち以外の人の気配はない。先ほどまでちらほらと窺えた、公園で余暇を楽しんでいた人々も、この突然の夕立を避けて皆どこかに散り雨宿りをしているはずだ。鳥さえもおそらく木立の枝葉の影に身を潜めて、今はこの雨が通り過ぎるのを待っているのだろう。
 勢いを増す雨が足元を打つこの風景に霧島はなにか寂しさすら覚える。それは単に、急に明媚さを失いぼやけた公園の眺めのせいだけではなく、もうすぐ今日の終わりが来ることを自分は知っているからかもしれない。忙しい二人には、この次の約束はまだできそうになかった。

 しばらくの間、二人きりの屋根の下で沈黙が続く。簡易な作りの屋根に絶え間なく打ち付ける雫の音が響いている。この雨が止むまでにはまだ、当分かかりそうだ。
「……君に、謝らなくては」
 ぽつりとそう言うと、美奈子は急な言葉に不思議そうな表情でこちらを見上げた。
「本当は、知っていたんだ。少し前から、黒い雲が近付いてきていたことに。空模様があやしい、おそらくは、じきに雨が来るだろうと。夕方で、もうそろそろいい時間だった。本当は雨が来ると分かった時点で……降り出す前にすぐ家に送り届けていれば、君を濡らさずに済んでいたかもしれない。だが」
 自分で言いかけた話だが、続きを繋げることを、少しだけためらう。足元を叩く雨が強まった気がする。
「まだ、終わらせたくなかった。デートを切り上げるのがこの場では賢明な判断だと、そう知っていたけど俺は、まだ君を帰したくなくて。だから降り出しそうな空には、気付かないふりをしていた。あと少しだけ、そう思っているうちに……言い出せずにいるうちに、結果的にこんなことに」
 この状況に対して、ごく正直に自分の気持ちを述べたつもりだったが、それを聞いた美奈子は隣でくすりと笑った。
「じゃあわたしも、謝らなくちゃ。……ひとつ、嘘をついたから」
 彼女の言葉に、霧島は問い返すように視線を向けた。
「今さっき、早く雨が止むといいねって言ったけど。本当はね、ずっとこのままでもいいなって。だってやっと今日、二人で会えたから。帰る時間がもっと遅くなったとしても、こうしてるのもいいなと思って。……だから、一緒だね?」
 そう言うと美奈子はにっこりと微笑む。
「……全く、君には敵わないな」
 雨が打つ音に混じり、向こうの空でかすかに遠雷が聞こえる。まだ今は遠いが、こちらに近付いてくるかもしれない。そうして不意に会話が途切れると改めて、公園の真ん中とはいえ状況的に、いまここには二人きりなのだということを強く意識する。低い屋根から流れ落ちる雨のせいで、二人だけが世界から切り離され、閉ざされた場所にいるような気分だ。そして意識し始めると、例の会話のせいもあって、妙に彼女の方を向くのが照れくさい気がした。これまでは降り続く雨の音が、沈黙の時の気恥ずかしさを打ち消してくれていたのだけれど。

「……そういえば、ずっと昔に読んだ、絵本のことを思い出した」
 気恥ずかしさを濁そうと次の言葉を探していた霧島がそう切り出すと、美奈子が興味深そうな目をしてこちらを見た。
「こんな雨の日は、小さい頃、外に出られない時に家でよくこんな絵本を読んでいた。昔話のようなものだ。でもこうして、ただ雨が止むのを待っていても手持ち無沙汰だし、聞いてもらってもいいだろうか」
 美奈子がうなずいてどんなお話?と訊ねてくる。ひとつずつ思い出すように霧島は話し始めた。
「ある時代、ある国のとあるところに、魔法使いがいた。しかしある日突然彼は、その魔法が使えなくなってしまった。何の理由も、心当たりも見付からない。自分で努力してみても魔法が取り戻せず、困り果てたその魔法使いは、世界の果て、千年の菩提樹の木に棲むという妖精に助けを求めた。妖精は初めは、自分には特別な力はないし、何もできないと断ったけれど、藁にもすがる思いでやって来た彼の真摯な姿勢に動かされて、少しずつ協力をするようになった。彼が魔法の修行に励む間、それに関する本をたくさん集めてきたり 時には練習の相手にもなったり、彼がおなかを空かせれば食事を作ったり。そうやって彼を励まし続けた。魔法使いはもう一度魔法を使えるよう修行を続けるが、なかなかうまくいかない。そうしているうちにいつしか季節が流れて、長い長い年月が経った」
 その時突然、近くで雷が落ちる音が轟いて、彼女が小さく身を震わせた。さっきの雷がずいぶん近付いてきたようだ。雨脚は強く止む気配がない。まだ日が完全に落ちてはいないはずだが、空は黒い雲に覆われて辺りはだいぶ薄暗くなっていた。
「近いな。だが、ここにいれば大丈夫だ。側撃雷を避けて柱から十分離れて立っていれば、たとえ落雷しても伝って地面に流れるし、ここから適度に離れた周辺の高木が避雷針にもなる」
 安心させるようそう言った後で、霧島は遠くの空を見遣った。
「この絵本の続きは、……そうだな、雨が止んだら、その時に教えよう」
 夏の終わりとはいえ、いつの間にか急激に下がった気温にうっすらと肌寒さを覚える。不安そうに、雷鳴に怯える彼女の小さな肩に寄り添うように、霧島は少しだけ自分の身を寄せた。

…………………