【色のない世界】  音羽×主人公


 扉が閉まる音が、今日一日の終わりを告げる。

 さっきまで会話に花を咲かせていた女性連れの客を、ドアベルの音と共に送り出すと、微かな音楽が流れているだけの店内はいっぺんに静かになった気がした。
 時間帯のせいもあるだろう。客がいたテーブルの上を片付けてから、壁に架かる時計をちらと確認する。そろそろ外にクローズの札を提げた方がいい頃だ。
 忙しく入り口の扉の札をひっくり返し、また厨房に戻って軽く洗い物を終えてから改めて、美奈子は今日最後に、あとひとりだけ残った、窓際のお客の方を見た。
 いつもと同じく、彼のお気に入りの席に座った慎之介がじっと窓の外を見ている。その姿に、いつかも彼がこんなふうに窓の外を眺めていたことを、美奈子はふと思い出した。
 今の場合は、閉店するくらいの時刻だから、あの時とは違って窓の外は真っ暗でもう、何も見えないのだけれど。
 彼がここでこんなふうに過ごしてしていることも少なくはない。それでもなぜだか今日は気になって、美奈子は皿を下げるのを口実にして彼の席に近付いた。
「あの、慎之介さん……」
 少しためらいがちに、テーブルの横から声を掛けると、それに気がついた慎之介はすぐにこちらに向き直った。
「あ、もう閉店の時間?」
 その表情に笑顔を返しながら、よかった、と美奈子は少しだけ胸を撫で下ろす。振り返った彼が、あの日みたいにとても悲しい顔をしていたらどうしようと本当は思っていた。
「うん、もうお店の入り口は閉めてきたよ。……紅茶のお代わりいる?」
「ううん、もう大丈夫。そっか、もうそんな時間なんだ。ここにいると、なんだかあっという間で」
 それじゃ、名残惜しいけどそろそろ僕も帰らなくちゃね。慎之介はふっと微笑んで席を立ち、辺りを見回した。
「もう誰もいない。僕が今日、一番最後のお客だったんだね。じゃあ明日も、一番最初のお客さんになろうかな?」
「いつもごひいきにありがとうございます。だけど慎之介さん、明日朝早くからロケに行くって言ってなかった?」
「あれ?そうだったっけ?」
「もう、この間慎之介さんが自分でそう教えてくれたよ?」
「そっか。そう言えば、そんなこと言ってたかも。ふふ、君は僕のマネージャーさんだ。うん、これからも僕が忘れてたらよろしくね」
 にっこりといつもの笑顔を見せる。会計を済ませた後、扉を開けようとしてふと、慎之介は足を止めて振り返った。
「ロケから帰ってきたら、あの約束。楽しみにしてるね」

 ドアベルの乾いた音を背に、そう言い残すと彼は出て行った。扉が閉まり切るまで、その姿を見送る。今度こそ誰もいなくなった店内は、やけにしんと静まり返った。



 いつの頃からか、美奈子は繰り返しよく同じ夢を見るようになっていた。夜明け前の浅い眠りの中で、もう何度それを見たかは分からない。気が付くと美奈子はいつも同じ場所に立っている。
 上も下も両側も真っ白な空間。まるで巨大迷路に迷い込んだように、美奈子の両側には背の高い白い壁がそびえ、その通路は奥に向かって続いている。先の方は見えず、どうなっているかは分からない。夢の始まりはなぜかいつも同じ場所に立っていて、あてもないまま、美奈子はいつも通路の奥へと歩き始める。
 途中いくつかの角を適当に曲がり――それは毎回美奈子が気まぐれに自由な意思で選んでいるはずなのだけれど、どの角を曲がっても、見えてくる景色はいつも同じものだった。というよりも、どう歩いてもずっと同じ白い壁ばかりの風景が続いているのだ。無限回廊のように、その道はどこまでも終わりなく伸びていて、この先どう曲がってどこに進んだとしても、きっといつまでも同じものが続くように思えた。そして足を進めるごとに、もうここから抜け出せないのではないかという不安にさいまなれていく。
 誰もいない閉ざされた無音の世界で、心細さだけが募っていく。どれくらいか歩いたか分からなくなったあたりで美奈子は、ようやく白い壁以外のものに出会う。向こうに小さく見える彼は、誰かも分からずいつも遠くて後姿だけだったけれど、それはきっと慎之介だという気がした。根拠はなかったが、確信に近かった。
 確かめようと歩みを速め近付くと、彼は途中で角を曲がりまた姿を見失う。急いで美奈子が追いついてその辺りの角を曲がると、少し近付けたと思った距離はまた初めと同じように離れている。その繰り返しだった。
 名前を呼びかけようとしてもなぜか声が出せない。いや、本当は出せているのかもしれないけど、いつも彼はそれに気付くことなく、また決してこちらを振り返ることもなかった。それでも、追い付こうとして何度もそれを繰り返していくうちに少しずつ間の距離が縮まっていく。もうあと少しで手が届く。次の角を曲がれば、そう思った時に決まっていつも、足元を突然失ったみたいにバランスを崩し、浮遊してどこかに落下する感覚と共に美奈子は目が覚める。夢はいつもここで終わっていた。何度繰り返し同じ夢を見ても、その世界で彼に気付いてもらったことはまだ一度もなかった。
 
 
「……どうかした?」
 その声に我に返ると、すぐ目の前に、美奈子の顔をじっと覗き込む慎之介の姿がある。
 青空に映える鮮やかなハロウィンモチーフの飾り付けが、肩の向こう側で揺れている。隣では、陽気な音楽を奏でながら、子どもたちをたくさん乗せたコーヒーカップがちょうど回り出したところだ。
 ロケが終わって休みが取れたら、二人で一緒に来よう。そう約束していた遊園地は、晴天に恵まれた秋の行楽日和ということもあって、今日もいつも通りたくさんの家族連れで賑わっている。
 美奈子は改めていま自分が居る場所を思い出す。こうやって久しぶりにやっと二人で出かけられたのに、その途中で急にあの夢のことを思い出してしまった。それもずいぶんはっきりと、まだこんなにも日が高いうちから、まるで白昼夢でも見ていたように。
「ううん、なんでもない」美奈子は慌てて誤魔化そうとしたが、慎之介は表情を変えずまっすぐにこちらを見たままだ。
「でも、ボーッとしてた。……疲れちゃった?」
 確かに不思議な夢ではあるし、慎之介とこうして会う度に思い出すほどには、気になっている。けれど彼に話したところでどうしようもないことだ。所詮は自分が勝手に見ている、ただの夢なのだから。
「大丈夫。ちょっと、考え事してただけで」
「僕と一緒にいるのに、他に考え事?」
 くすりとそう笑う慎之介に、答えに困っていると、彼は何事か考えるように、少しだけ目を伏せた。

「……ねえ君は、どこかから出られないと思ったことある?たとえば、……そう、夢の中とか」

 その言葉に、美奈子は驚いて彼を見つめた。慎之介は時々、いろいろなものを言い当てる事があるのは美奈子も知っている。それはたいてい、ずば抜けて勘がよく働く類のものだと思っていたけれど、今の彼はいろんなことを、まるで全てを知っているようにも思えた。誰も知らないはずの、わたしの夢の中でさえも。
「そんな困った顔しないで。ごめんね、やっぱり今のは、なんでもないから。……ねえ、この中にあるどこかのワゴンで、ハニーチュロス売ってるんだって。一緒に探しに行こう?」
 いつも通りの表情で、慎之介はそう言うと微笑んだ。
 あの夢をよく見るのは、いつの間にか眠ってしまった時だったり、あるいはひどく疲れている時だったりした。目が覚めた時には言いようのない寂しさを覚えるけれど、同時にこれが夢だったことに安堵もする。自分でもよく分からない、それでも美奈子にもこれだけは言えた。あの夢を見た後はいつも決まって、どうしようもなく彼に会いたくなった。
 考えてたのは慎之介さんのことだよ、と、後を追いながら美奈子はその背中に聞こえないよう呟いた。

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